正しき"児童向け"よ永遠なれ!!
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>休止宣言
投稿者:
へのへの茂平次
投稿日:2008年 9月21日(日)23時08分33秒
返信・引用
>入院
ご快癒をお祈りすることしか出来ませんが、早くお元気になられて下さい。
>このサイトはもうたたむ方向で
そんな寂しいことはおっしゃらず・・いつまでもお待ちしていますので、ぜひ続けられて下さいまし。また、寄らせて頂きますね。
休止宣言。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 9月18日(木)08時35分30秒
返信・引用
また入院することになりました。
今度はすぐに退院出来そうだけど、またいつ喰らい込むことになるか判りません。
まぁ、「ポニョ」に「救われた」自分としては、元々このサイトはもうたたむ方向で考えていた
ので、一つそういう事で。…ホントは、劇場公開している間ももう一回だけ、第7回健勝に行って、
それで感想の総まとめを書くつもりではあったんですけど… まぁ、それもいいですか。
(無題)
投稿者:
まかふしぎ
投稿日:2008年 9月 9日(火)17時37分17秒
返信・引用
どうも。
東京に出て来てたときは、すでに片耳が聞こえない状況でした。 豊島さんとの会話も少し滞ってたと思います。
中学からの付き合いで、かなりいろんな影響を受けて感謝してたのですが残念でなりません。 原稿集めて同人誌作ろうかと思ったのですが、どうも親御さんが捨てちゃったらしく。。。こちらも残念無念。
(無題)
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 9月 7日(日)20時44分45秒
返信・引用
魔訶の旦那、本当に本当に、お久しぶりです。
そうですか…。亡くなられた事自体に関しては、私はただ「イワエモンに続いて、米やんも
死んじゃったし、彼も亡くなって、あの俺達の時代が、確実に終わったなぁ…」と実感する
のみです…
ただ驚いたのは、20年も前から彼は闘病を続けていたのだなぁ、という事。 20年前と言うと、
東京へ出て来た当時でしょうか?それとも発病してから、青森に帰られたのでしょうか?
あの頃から、こちらが下らない時間をダラダラ過ごしている間に、彼は病と闘い続けてきたん
ですねえ。自分も今は病持ちの身体になりましたが、こんなものとは比較にならない苦闘を
20年間も続けていたのか… 知らせていただいて、本当に有難う御座います。
そうだね、みんなそろそろ、そういった歳だね。
ちょいと暗いのですが
投稿者:
まかふしぎ
投稿日:2008年 9月 6日(土)16時51分43秒
返信・引用
おひさしぶりでごんす。
雨の浮船、覚えてらっしゃるでしょうか。
先日亡くなりました。 マジ。
もう20年も前から、早いうちに死ぬという覚悟の病気だったので、随分持った気はしてます。
氏の漫画を気に入って下さってた豊島さんにはお知らせしとこうと思いまして。
こんな楽しげなところに書くのもはばかられたのですが、今メールが使えない状況なモノですいません。
「ポニョ」、大まとめ、に近いモノ。…の続き。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月22日(金)10時59分56秒
返信・引用
編集済
かなり間が空いちゃったけど、それは「ポニョ」に関しては、少し安心した、と思えるからです。
どうやら「決着」が付きつつあるように見受けられるから。
「決着」と書いたのは、自分なりのこの映画の咀嚼、解釈という意味ではありません。そんなものは
下↓で楽しく七転八倒している中途で書いた通り、既にリアクションを返せるくらいに整っています。
現在、街の匂いを嗅いでも、以前と少し違う、という事。
以前のように、街がこの映画を「テキトーな所で片付け出している」感じはしない。それは劇的な変容
ではないけれど「何だか判らないけど判る人には判るらしい映画」「自分も判るのかどうか試しに観に
行ってみようかなあ、と思わせる映画」というニュアンスで受け取られだしているように思えて。
「勝利」と呼んで、差し支えないかも。小さな勝利。
「こんなモノがファミリー向け映画を名乗るなんて、けしからん!」と真正面からがなり立てる行為
がかすかに「ひょっとして私かなり恥ずかしいことしてる?」と、周囲を気にしだす程度にははばか
られるようになった。その程度には、やんわりと、社会に認知されるくらいにはなった、と思います。
まだ『社会の中で、ある得るべき場所に収まる定評を得た』訳ではないけど…「豚」や「千尋」や
「ハウル」のように、「一度は名を聞いた事のある美術品」としての位置を占め、興味の無い者にも
暇な時に「どんな物だか目を通してみようか」程度に手に取らせる、そんなポジションにまではまだ
行っていない、とは思います。「ポニョ」は「幼児向け絵本」の造りの中に作家性を潜ませた内容な
ので、興味の無い、観る気も無い者にとって「はぁん。幼児向けに哲学性を仕込んだ?そんなウリ?」
と「判ったフリを装う」「ポーズをとらせる」隙を与えてしまっている。そんな風に思えます。
現在の概況は、そんなトコ。
作家としてはコレ『「言葉にならない種の感動」を与えたつもりだから、そんな棚に収まるための
分類など要らない!「言葉にならない」カタチで感動してくれ!』と言われるかも知れないけど、
本作が広く社会の根底に浸透し読み継がれる様になるまで、その間は取り敢えず「何だか判らない
けど哲学的ラシイ」との「箔」を付けておかないと、コレに脊髄反射的拒否反応を示すケダモノの
ような主婦層(笑)と、それに乗じてジブリ作品にはご退場いただき、そのシェアを奪いましょうと
画策する文字通りの社会的ケダモノ達の結託攻撃によって、意図的に「洗い流されてしまう」。
それだけは避けたい。
まぁ、この「"死の影"がチラホラする哲学的幼児向け」なんてな箔付けの仮称も、社会上で流通さ
せるための「仮初めのレッテル」としてはよろしいんじゃないでしょうか?その意味で鈴木Pの
やられてる事も間違ってはいないと思います。焼き物職人としては不愉快かも知れないですけど、
芸術品の壷も、取り敢えず生産流通ラインを通す間はダンボールに収めて、バーコード貼って。
副次的な効果だけど、「映画の評者」としての信頼性に足らない俗物達の炙り出しにも成功したし、
アタシはコレまでの本作に対する社会の反応を、ネットの窓口から盗み見ていて面白かったです。
ただ…。
未だに、同じ所をグルグル回る平衡神経が麻痺した実験動物のように「ボクに理解出来ない!演出
の失敗!宮崎は耄碌した!」と繰り返し喚くだけのオウムさんは、可哀想だけど「夢の網」に引っ
掛からなかった産廃物の類なので放っておくとして、…問題は、初見感想で己のブログに「なんだ
こりゃ!訳が判らない!」と書いたのはいいものの、その後にハッと気付いちゃった封切り当時の
自分みたいなタイプ。「ポニョ」という作品の特徴的な効果は、その「絵画性」と「遅効性」です。
弁証法的テーマで正確に解答が手渡される通過儀礼的作品と違って、その場では最初、何が何だか
判らんものです。「その場で」判らなかったからといって、何の恥ずかしい事も無い。むしろ自分
の様に、鑑賞の夜に寝ていて、だんだんと身にしみてテーマが自分のものになってくる、その理解
の仕方のほうが監督の意図した通りの物ではないか、と思えるので、後になって映画への意見が変
わったヒトは、恥ずかしがらずにその気持ちを開示して欲しい。
この、観客の「気がかわる」過程こそが一番ドラマチックで、制作者サイドも最も待ち望んでいる、
読んで嬉しい感想なのではないか、と勝手に思います。
下↓で繰り広げた自分の変遷の過程そのもの。最初は「心穏やかになれる児童向け」の通過儀礼の
中に逃げ込みたがっていた初動感想から、最新の「バクとクロミの最後のラブ決着」(これアタシ、
実際に見た夢ではあるけれど明確に『「ポニョ」への感想』として書いてます)に至るまで、自分
の捕らえ方がどんな風に変わったか、を開陳していったら、「ポニョ」という映画に対して観客の
最も真摯で誠実なリアクション、最も有益なイベントとして、表現を消費する映画制作鑑賞行為の
大きなサークルが完成されるのではないか、と思います。思いますったら。
=============================================================================================
☆8/25、付記。
なんか他の作品を引き合いに出して類推するやり方が多くて心苦しいのですが…「モーニング」に連
載していた山下和美氏のマンガ作品に近いものを感じます、「ポニョ」は。山下氏は「天才柳沢教授
の生活」が人気作ですが…あの作品も、非常に深いテーマを取り扱っているにもかかわらず主人公の
教授のキャラの人間的面白みが特に主婦層にウケちゃって、なかばアイドルまがいに取り扱われてる
現状なんかも、また「ポニョ」に近いとも思われたりしますが…しかし、アタシが今回比較したいの
は「教授」ではなくて「不思議な少年」という作品の方。この作品のテーマは一口に言ってしまうと
『もしこの世に「神」の様な存在がいるとするなら、地球の神はちっとも慈悲深くなど無い。それは
気まぐれで、我が侭で、意地悪く、皮肉屋で、人間どもを玩具にして弄ぶ様な存在だ』…というもの。
自分は、この漫画のフリをした文芸作品で、作者が少年のような姿に託して描いた「なにものか」。
この「なにものか」と、本作の少女・ポニョとは、ほとんど同義的存在ではないか、と思っています。
ただし本作で描かれるポニョは、とても「愛らしい」。
破壊的で、可能性としては町一つ全滅させたりも(笑)しますが、無邪気で悪気が無く、愛する事には
命懸け。もちろん彼女の周囲には死が付き纏いますが、彼女本人はそんな事気にも掛けていないほど
エネルギッシュ。「生きる喜び」に満ち溢れ、意欲満々に輝いています。そして、愛らしい。
決して目をそらせないほど、愛らしい。
そんな彼女と
「運命の出会いをしてしまう」
ラブストーリー。
白状してしまいますと、私は産まれも育ちも東京港区で、幼い頃から「養鶏場のような街だ、ココは」
と思って生きてきました。大人となり仕事をしても、遊び程度に女性と付き合っても、どこか「歯車
の欠損した感覚」が常に付き纏っていました。エンジンはぶんぶん唸りを上げているのに、ミッション
の一部に欠落があって、回転がタイヤまで伝わらない…そんな感覚に、さいなまれてきました。
もし子供の頃にポニョと出会っていたら…。もし20歳の頃に「ポニョ」という作品に出会っていたら…
きっと、もっと違う人生も有り得たのかも知れない、と思います。
=============================================================================================
「ポニョ」という映画は、宝物の詰め合わせだ。
およそこの世で手に入る限りない金銀財宝、目が覚めるほど美しい紅玉碧玉瑪瑙翡翠を散りばめた
珠玉の工芸品、匠の技で仕上げた至高の美術品、それら全てを盛り込んだ「この世の美しいもの」
詰め合わせセットを、ほいッ、と手渡されたようなものだ。受け取った者はその瞬間、あまりの幸
福に「わァ!」と瞳を輝かせるが、しかし気付くと、それを手渡した制作者の瞳は真剣そのもので、
自分を見つめている。口元に薄笑いを凍りつかせたまま、見つめている。そんな映画だ。
この宝箱…金銀財宝の山は、そのまま"玉手箱"なのかも知れない。この作品は「人魚姫」というだ
けでなく「浦島太郎」でもあるそうだから。しかし、豊島太郎は、この宝物を抱えて生きてゆける。
これさえあれば、生きてゆける。
何よりも素晴らしい宝物、『信じていいんだ』という最高の言葉が、宝箱の底に書いてあったから。
「信じていいんだ」? ちぃと違うか。「お前が信じなくて、どうすんだ」か。その辺はともかく。
これさえあれば、生きてゆける。
本当に、本当に、素晴らしい作品を有難う御座いました
。
=============================================================================================
☆9/6、久しぶりに付記。
ヴェネチア国際映画祭が大いに盛り上がっていますね。ネットやTVに流れてくる様々な動画や画像、
その盛況振りを伝えるニュースを観ていると、コッチまでワクワクしてきます。お祭りっていいな。
実際にコンペに出展して、他の参加作品と斬った張ったを繰り広げている監督達は、人事だからって
呑気に見やがって、と修羅の形相なんでしょうけど。なんてったって、イタリアやフランスの批評家
の物言いって、情け容赦ないですもんね。世界中から持ち寄られた気鋭の作家達の鬼作問題作の数々
が、一言の元に斬って落とされたり、ドブに突き落とされ足蹴にされるような扱いを受けてますもん
ね。コワいわ。国際交流クラスの品評会。その中で、会期中ほぼ全てに渡って首位をキープし続け、
一般観客の人気も絶大だった宮崎駿監督「崖の上のポニョ」、それに勝るとも劣らぬ勢いだった北野
武監督「アキレスと亀」、叩かれもしたものの堂々たる好評も勝ち得た押井守監督「スカイクロラ」、
これらの作品は日本の誇りです。今回のコンペ出展に関しては大会主催者側に「日本一国から3作品、
それもアニメが2本も入ってくるのはいかがなものか」という問いが無きにしも非ずだった様子です
が、蓋を開けてみれば、この大絶賛。ポニョは、本当にイタリアの観客に愛されていましたね。
宮崎監督も嬉しげでした。
しかしアタシの読みとしては「ポニョ」の金獅子賞受賞は、今回はないのでは?…とも思えるです。
もちろん賞受賞はあるでしょうけど銀とか、審査員特別賞とか、そんな辺りに落ち着くのではないか
なぁ、と。何故なら「ポニョ」は、過去に世界中を驚天動地の坩堝に叩き込み、映画表現に新地平を
示し、数々の映画賞を総なめにした傑作「千と千尋の神隠し」と映画後半の構造が同じだから、です。
幻想なのか現実なのか定かでない、生と死の境界線上のような世界へ「自分探し」の旅に出て、己の
中に確固たる答えを見つけ出し、自我を完成させて還ってくる。そこで取ってつけたような、お祭り
的なラストの盛り上がりが気のないオマケのように付け足され観客が「え?えッ!?えッ!」と目を
白黒させてる間に突然に映画は終わっちゃう。この構造、ヤリクチが一緒。ほいッ、後は君達のターン、
と映画作家が観客にバトンを投げて渡すような締め括り方。
だから「ポニョ」は、映画の構造的には「千尋」と比べて、目の覚めるような新しい「発見」を提示
している訳ではない…もし賞を受賞するのなら、それは今回の作品が獲得した素晴らしき芸術的収穫、
映像詩としてのダイナミズム、イマジネーションの奔流…「千尋」の匠の技巧の蓄積で見る者を屈服
させるような美術とまた違った、生きる喜びを爆発させたような歓喜の表現、文字通り水を得た魚の
ようなアニメーションの本懐…こちらの方に捧げるべきかなぁ、とは思っております。
もちろん何にせよ受賞したら、あたしゃ狂ったように大喜びですが。「ポニョ」、愛してますんで。
心の底から、愛してますんで。この作品。
=============================================================================================
☆9/7、付記。
あ〜、残念。今年のヴェネチアは、日本作品は3作とも受賞、逃したか〜。
…そーだよなあ。宮崎監督自身も過去、「千尋」や「ハウル」とかで金熊賞とか、御当地の
ヴェネチアでも既に栄誉金獅子賞とか受けてんのに、これ以上与えたら「どこまで日本ベッタリ
なんだよ!」とか非難されちゃうだろうしなぁ。オリンピックでも地味な活躍だったし「日本は
今、波が来てないだろう」という感覚でも働きましたかね?
「ポニョ」に送られたのは非公式部門の3賞、デジタルなんとやらの特別賞、どっかの財団賞、
んでアチラの新聞が「もっとも観客に支持された映画」として贈る観客賞、の3本でした。
まぁ、アチラの俳優や批評家やらがポニョポニョ♪歌ってるニュース映像見るだけでもワクワク
して、面白かった(*^▽^*)! お疲れ〜。
今朝、見た夢。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月20日(水)05時59分32秒
返信・引用
今朝がた、クロミとバクの夢を見た。ホントに見た。2匹の、最後の最後のラブシーン決着の夢。
「どうして、あたいを閉じ込めようとするんだよう!」
「閉じ込めようとなどしていないゾナ。クロミ様にはバクしかいないゾナ。バクは、最高の男ゾナよ」
殴られても、殴られても、血だらけになりながらも微笑んでいた。バク、いい男だなあ。
この二人の決着は、もうアニメ本編でなど、描く必要無し。
「ポニョ」第6回目の鑑賞、終了。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月15日(金)09時25分2秒
返信・引用
編集済
☆
第6回目鑑賞終了。
夕方5時前の回、行ったシネコンは相変わらずの2スクリーン体勢。前より
観客増えた!!
盆休みなので家族連れで賑わってる!
自分もコレまでの鑑賞と反芻で、あらかたの疑問点や引っ掛かりは解決出来た上での事なので、
コレまでで一番楽しく、満足の行く鑑賞になりました
。
「老人の視点」で受け止めるのが一番正解に近い鑑賞姿勢だろう、という解釈を改めて再確認。
このように作品を引いた位置から俯瞰すると、リサの不可解な色気なんかもキチンと意味があっ
たんだ、と言う事も判ってくる。「朗らかな温もりにくるまれる様なあの世感覚」も、こうして
観れば心の芯から癒される、心休まるものであることが判る。お盆に観るのにうって付け(笑)。
何度も観返せば観返すほど自分の中に確信が固まってゆく事だけど、
この映画どこにも欠損
など無い。
キッチリと完成している
。これ以上足す物も、引く物も無い。
ただ「判り易くするために」、「こういうのを付け足したら解釈に苦しむ観客を減らせたかも
知れない」シーンや描写は考えられないでもない…例えば、映画の冒頭に「コレは誰かが見て
いる夢ですよ」もしくは「絵本の中に入ってゆきますよ」みたいな象徴的説明カットを入れる、
みたいなヤツ…ひょっとしてタイトルIN直前にスーパーされる「はじまり」がソレなのかな?
だとしたら随分不親切な話だ(笑)…けれども、今回はそのテの説明的な手掛かりを極力排する
のが監督の意図だったんでしょうね。観客にあれやこれや思いを巡らせてもらう、てのが目的
だったんでしょう。よってこの映画に「欠損」や「欠落」等、無い。
現代社会は、病んでいる。
ポニョに出会った宗介の「この世の不思議に出会った」瞳の輝き。そのポニョが「好き!」と
話しかけてきた際の、魂が戦慄くような歓び。身体が浮き立ち、自分が何か途方も無く美しく、
ワクワクする物語の1ページ目をめくったのだ、という感動。そういった物が細かく積み重な
って、この映画は織り成されている。
ここで、今の世に溢れる娯楽…どこかで見て来た様な既成イマジネーションの劣化コピーに過
ぎない、チープで即物的で、ネタが無いのですぐパンツの中に手を伸ばそうとするような毒物
に慣れ親しんだ者には、こんなみずみずしいシーンでも「ふぅん。は。それで?」と、判った
気になって、何も機能するところは無いだろう。再び片手のチープなスナック菓子をボリボリ
齧りながら、何かもっと刺激的な暇潰しはねぇかなぁ、とキョロキョロしだすだけだ。
この映画の構造は、全体が一つの「夢」である。その夢の中には恐ろしい「死のイメージ」が
横行している。それに触れ、一旦死に、生まれ変わったような気持ちで鑑賞すれば、必ずこの
映画を再発見できる。…憧れの地上の光に届かせたい一心で手を伸ばし、脚を生やし、与えら
れた恵みの生命を身体いっぱいに吸い込んで、愛する者を抱き締められる腕を、その者に与え
られるみずみずしい柔肌を手に入れた存在が、その喜びの余り天変地異を起こして突進する…
「生まれてきた喜び」を、感謝を、声震わせて体現する…そんな気持ちで一つ一つのシーンを
味わい返してみれば、これがどんなにきらびやかに、奇跡のように、この世の不思議、輝き、
胸を引き絞られるような懐かしさ等を表した映画であるのかを発見出来るだろう。
自分は、この映画で「救われた」。 貴方はどうですか?
病んだ都市生活者の観客が待ち望むような明快なドラマツルギーに則った解答など、本作では
与えられない。「学校で教わった公式に当てはめられない、弁証的証明で結果に辿り着けない、
そんな創作物など、無い物と一緒」…と信じ込んでいる観客は、自分にとって見えない物を他の
者が感じ取っているのを知って、途方も無く不安になる。だから食っていた安物スナック菓子を
撒き散らしてわめく。「捏造だ!信者のコジツケだ!」と。
フと、その昔、出版界を席巻した裸眼立体視ブームを思い出した。その頃の雑誌には必ず砂嵐の
ような裸眼立体視パターンが掲載されていたものだが…ある書店で、一人の学生が怒号を上げて
いた事がある。「こんな物、見えてないのに皆んな見えたフリをしているだけなんだろう?見え
てないと思われるのが恥ずかしいから話を合わせているだけなんだろう!」…その彼は、きっと
先天的に視焦点をずらすのが苦手な体質で、自分でも薄々それに気付いていたのではないか、と
思う。だからあんなに、自暴自棄な程にまで怒り狂っていたのではないか。
いや、自分は、こんな芸術作品の価値ですら弁証出来ないはずは無い、と思っているクチなんで
すけどね。だからこうして膨大な分量の奇文長文をダラダラと書き並べ立ててしまっている訳で。
だから、話を続けましょう。裸眼立体視が苦手な人でもいつか実感出来るように、本作の価値を。
↑上は「この世に生まれ、この世のものに触れる喜び」に立ち返る…というパートだが、ポニョ
が津波に乗って来襲した直後、宗介との再会シーン。これは「原初的な愛する喜び」に立ち返る
パートである。
このシーンはリサと耕一のモールス通信シーンと対比されている。自分とは違った存在、主義、
趣向で成り立っている人間と愛し、付き合っていかざるを得ない人間達。かたや、実は女が少々
苦手で「海の男」というナルシスティックな仕事の論理の中に逃げ込みたがっている男。かたや、
自分の愛の渇望が完全に満たされる事はこの先、ずっと無いまま、歳を取っていくのか…という
遣る瀬無い不安を抱えている女。その双方は、暗い海の上で微かに瞬くモールス信号のやり取り
で気持ちを伝え合うしかない。か細い、何とも心細い、その愛情の通い路(かよいじ)。
一方のポニョには、もう理屈なんて無い。逢いたいから来ました。嬉しい。宗介も嬉しいよね?
もう一方の宗介も、まるで魔法のように、奇跡のように、一発で少女の正体を言い当ててしまう。
この一瞬には本来重大な物語が積み重ねなければならない、そんな局面である。これが児童向け
読み物なら、こここそ主人公の試練、逆境、それに纏わる苦労の数々が記されるべきパートだろう。
「人魚姫」ならば、異種族の町へ単身訪れた主人公の孤独、恐怖、異民族への恐れ、嫌悪、魔法
の力で得た事による脚の痛み、最愛の者に受け入れられないかも知れない不安、等々。
「ペリーヌ物語」なら、ビルフラン家に召抱えられた後の主人公。祖父のすぐ傍まで来ているの
に、もし彼に拒絶されたら、過去、辛い旅行きでの母の死までもが無駄という事になってしまう。
だから言い出せない。召使のフリをするしかない。まさに地獄の責め苦の如き試練が待ち受けて
当然、のシチュエーション。ここを宗介は何の気なく、ひょい、と跳び越えてしまう。
ここには『絶対の信頼』がある。幼い頃に一番好きだったペット、もしくは玩具を思い出して欲
しい。もしそれらが魔法の力で人間の姿になって訪れたら、自分は絶対にそれを彼等だ、と言い
当てられる、と確信を持っていたはずだ。もし彼らが口をきけないようなら、何も聞かないでも
自分はきっと助けてあげられる、と信じていたはずだ。少なくとも自分はそうだった。
原初の「好き」という気持ちを思い出そう、という物語。それがどんなに美しく、気高く、掛け
替えの無いものだったか思い出そう、その気持ちがあれば、きっとどんな困難だって乗り越えて
ゆける、と諭す物語。
こんなもの弁証法的に展開されるテーマで「言葉」にして手渡したら、どんな観客の胸にだって
届く訳が無い。一笑にふされるだけだ。「夢」だからこれが出来るのだ。アニメーションだから、
これが出来るのだ。言葉で説明せずに観客に「感じさせ」考えさせる物語だから、これが出来る
のだ。
(長くなったのでいったん休み)
=============================================================================================
(続き)
さて、では、この映画の持つ「機能、価値」の、最もコアな部分に切り込みましょう。
ポンポン船のシーンです。本作品の持つ最も特徴的な「謎」の部分であり、最も美しく、また最も
恐ろしく、その不可思議な魅力の中核。本作に価値を見出せない観客が、人によってはその解釈に
苦しみ、人によっては一笑に付し、また小骨が刺さったように気にかかり、またその示す「死の影」
に怯え、うろたえ、訳の判らない不安を流し込まれた、と激怒する、そんなシーンです。
ホントはこのシーンの持つ「意味」を言葉により解き明かす、なんてナンセンス以外の何者でもない
んでしょうけど…そもそも芸術作品に対して、決め付けやガイドラインの設定など無意味。さらに、
これが例え、この映画を解せ無い「裸眼立体視が不得手の者」に対して語りかけてやるのが目的、と
した所で、受け手にとってもパンフレット片手に名画を読み解こうとする他力本願な行為、本末転倒
も甚だしい。…でも、あえて試みます。まだこの映画の「真価」を明確に世の中に問いただしている
批評は見受けられず、このままでは流されてしまう、という危惧を抱いているから。
この場面は、実は最も巧緻な演出技法によって構成されている、と思います。シクマレていると表現
しても過言ではない。意図的なカット尻の引き伸ばし等、不思議なタイミングの編集、象徴的、黙示
録的な美術と音響、そしてこれら観客を「夢の中に引きずり込む」ような構成意図。このトラップは
観客の心を捕らえ、その深層意識下に潜む伏流を導き出す「鏡」のように作用します。だからその鏡
に何が映ったかなんて人それぞれ、その意味を問いただすなんて不必要な行為なんでしょうけど…
しかし「私の"鏡"にはこんな風景が映し出されました」なんて開陳するのもこの映画に対する楽しい
リアクションの一つだろうと思って、敢えて書きます。
ところで、アニメーションは楽しい「夢」の担い手。それは週一の量産TVアニメ、商品CMの手先
でしかない粗製濫造のドンパチ物にしたって、そうです。「夢」を売り物にした商品である事に違い
はありません。貴方はこれまで、どんな「夢」を見て、またそれに惹かれてきましたか…?最新鋭の
モビルスーツを操って、人類の意識革命に立ち会いたい!…ふむふむ。ギアスで人心を操り、皇帝の
座に就きたい!…ナルホド。もてもてハーレム!…判り易いですな。一時のヘンな夢に浸って、浮世
を忘れたい!…とまァ、この辺が昨今地上波に溢れる、ティーン層以上向けのアニメ作品が提供する
夢の形ではないか、と思われます。これはアケスケ。その、作品の売りになっている「夢」の魅力に
乗せて描かれる文芸的仕事「テーマ」部分の方も、言葉にするなら「明日学校に行ったら、気になっ
ていたあの娘に声をかけてみようぜ」みたいなのが多いように見受けられます。
もっと沈降しましょう。そもそも、アニメ作品は子供のもの。その子供達に提供していた「夢」の形
を検証してみましょう。子供の頃、貴方はアニメ作品から、どんな「夢」を与えられていましたか?
超能力を持った居候が現れて、いじめっ子を懲らしめてくれたらいいなぁ。…「のらみみ」ですな。
押入れを開けたら異界に繋がっていて、竜の背中に乗って大冒険!…「デジモン」その他、ですな。
魔法の力でスターになってTVに出る!俺は実は国家秘密諜報機関の子供エージェント!…等々。
「夢」は様々な子供達の「欲望」を満たそうとしていますねえ。子供達も、他愛ないものとはいえ
意外とその欲望は即物的であったりもします。でも、その「夢」に乗せて描かれる「テーマ」部分は
けっこう多岐に渡って豊潤だったりもしました。大人は子供達に対しては意外と真面目で、色んな事
を語って聞かせてやろうとしますから。目的を果たすまでの苦難の克服だったり、悪戯に対する責任
だったり、親は自分を愛してくれていたんだ、いじめっ子も意外といいヤツだったりしたんだ、等々。
…さらに、もっと沈降してみましょう。…幼児期へ。
しゃべるうさぎさんとおともだちになりたいなぁ。すっごいゆうえんちへいってみたいなぁ。
ストップ。「架空の創作物を与えられる観客」としての、限界まで来ました。
流石にココまで来ると、もう「テーマとしての仕事」もへったくれもありません。副次的なテーマを
与えてみた所で観客の幼児には理解出来ません。せいぜいその成し得る仕事は、ほぉらコワいオバケ
が追っかけて来たよぉ、狼がお前さんを食べちゃうよぉ、恐いねぇ、あ、でもママが出て来て守って
くれたから大丈夫。良かったねぇ、お前さんはシアワセだねぇ、程度のものです。
…今回、本作を創るに当たって、きっと監督は、ココまで立ち戻らなければならなかったのでしょう。
他の作品、アニメ作品にまつわる「夢」は、観客の欲する「欲望」と制作者が与えようとする様々な
「テーマ」によって、その本来の輪郭が判らなくなるくらいにまで汚染されてしまっています。
それはもぉ、ドブ泥に落ちたガラス細工のように、本来の目的が不明瞭になってしまっています。
本来のアニメーションの「目的」とは何か。その提供する「夢」に乗せて、どんな「テーマ」を観客
に与えなければならないのか。その原初的な成り立ちを「思い出そうと」したもの。
それが今回のこの作品、2008年度スタジオジブリ制作「崖の上のポニョ」だと思います。
さて、宗介とポニョを乗せたポンポン船が船出してゆきます。夢のように美しい風景ですねえ…。
鏡のように透明な水底の、見知った町の上空を、まるで飛んでいるかのよう。自分の一番のお気に
入りの玩具も、まるで手足のように操れて。そばで一番の仲良しの子…この子には、何か運命的な
物を感じます…が、ニコニコと微笑みかけてきます。「楽しいねー」。
誰かが呼んでいます。「おーい、おーい」…。夢の中での、平和な休日のような風景。真っ白なサギ
の群れが飛び立って。幸福そうな、赤ん坊を抱いた夫婦の姿。さらには大勢の、見知った町の人々が
通り過ぎてゆきます。お祭りのように賑やかで、いつかどこかで見たような、けれど思い出せない、
懐かしい光景。
ここで、これまでにサブリミナル的に蓄積されてきた「死の幻影」はフルスロットルに加速されます。
この映画に組み込まれたと称する「死の影」は真実や否や!?みたいな話は無い物、として話を進め
ます。貴方の観客としての感受性をどうこう云々取り沙汰すのは、また別の場所での事。これはこの
映画という「鏡」に投影された私自身の「鏡像」を開述するための文章、とは明記致しましたので。
画面に投影される「幼児の夢」を楽しみながらも、観客の意識野の大部分…「大人の部分」は同時に
象徴的なモチーフによって惹起された「死」の臭いを感じ取り、そこに「暗喩された意図」を読み解
こう、と動き出します。かたや、美しい「夢」を享受し、幼児が母に抱かれているかのような幸福感。
かたや、謎を意識化しようと論理的に働いている大人の意識野。これは「夢を見ている」状態です。
レム睡眠です。作品は、そこへ静かに確信犯的に、観客の心へ機能させるべく、するすると「テーマ」
を滑り込ませます。
災害に負けずに、強く明るく、前向きに立ち向かっている人々。
家財一切を失っても狼狽える事無く、我が子を慈しみ、明日への希望を信じている人々。
しかし観客は、同時に感じ取っています。「この人達は、もう既に死んでいるのかも知れない」。
肉親への、隣人への愛、助け合い、それら全ての、人の持つ"良きもの"を抱えつつ、しかし不幸な
災害で生命を絶たれてしまって、皆んなして"山の上ホテル"に向かっている最中なのかも知れない
…という印象。そういった示唆は、作品の中に作為的に組み込まれています。
あなたの「鏡」には、どんな「鏡像」が映りましたか?私のには、こんな情景が映し出されました。
家も何もかも失ったが、家内も、我が子も無事だった。他に何が要るものか。よぉし、頑張るぞ。
スープもサンドイッチも有難くいただきましょう。早くこの子のために、おっぱいにして出さなく
ちゃ。沢山栄養をあげて元気をつけなくちゃ。そしたらこの子は明日も、元気でいてくれるかしら。
明日も、明後日も、微笑んでくれるかしら。
「この人達は、もう死んでしまうのかも知れない」「なにか自分にしてやれる事は無いだろうか」
おーい、皆んな大丈夫か。乗り遅れた者はいないか。源さんとこのタネ婆さんはどこだ。三艘目に
乗っているぞ。よぉし皆んな無事だな。酷い目にあったが、生命さえあればやり直せる!頑張ろう!
さあ、元気出して歌おう!災害などに負けない俺たちの歌を、誇り高く、胸を張って歌おう!
大人が、皆んな一生懸命だ。頼もしいなぁ。そんなお父ちゃんもお母ちゃんも一緒だから恐くない!
ボクも大きくなったら、あんな大人になりたいなぁ。皆んなを守ってあげたいなぁ。
「この人達は、もう死んでしまうのかも知れない」「なにか自分にしてやれる事は無いだろうか」
リサさんは無事だったのか。良かった!さすがリサさんだ。そう簡単にくたばらないぜヒャッホウ!
あ、宗介がピカピカのボートを操ってる。船長帽を被って、カッコいいなぁ。まるで大人みたい。
隣のあの子、誰?あの子が羨ましいなぁ。私が、あの隣に乗りたかったなぁ。私も乗せて。
子供の身でありながら、単身で親を捜索するという勇気ある行動を取った君に我々は敬意を表する!
我々も自分の仕事が済んだら、すぐに君に協力する。それまで頑張れよ!
頑張る君に、敬礼する! 頑張れよ! 頑張れよ! 頑張れよ!
「この人達は、もう死んでしまうのかも知れない」「なにか自分にしてやれる事は無いだろうか」
う。うおおお!! うおおおおおおおん!!!(号泣)
畜生!! 畜生!! 畜生!! 畜生!!
泣かせやがって!!!
泣かせやがってぇぇッ…!!!
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☆8/18、付記。軽いパート仕事で間が空いた。
さて、しつこく確認しておきますが、これは「ポニョ」という「鏡」に映った私自身の「鏡像」を
開陳した文章に過ぎませんですからね。映画の演出技法として、観客をアヤカシの世界へいざなうシ
クミは、この映画確実に、作為的に施されています。ソレは間違いない。けど、その"罠"にハマッた
タヌキがどんな行動を取るかなんて、それはそのタヌキ個人によるでしょう。観念して大人しくして
しまうかも知れない。鋏まれた脚を食いちぎってでも脱出を試みるかも知れない。それはそのタヌキ
本人に聞いてみなければ判りません。
再び、古い日本映画の話になっちゃいますけど…しかも、またもや怪奇映画(笑)…なんか「ポニョ」
ってのは自分の中では和製怪奇映画と愛称がイイのかも…まァ、お盆ですし、こーゆー切り口も面白
いかも。昔々大昔、まだ自分がほんの小さな幼児だった頃に観た怪奇映画、大映
「妖怪百物語」
ッて
のがあって…。今観ると笑っちゃうくらいチャチなんですけど、ソレでもガキの頃の事、観ていて
とっても恐くって。物語は江戸時代、因業強欲な商店主と奉行が妖怪にたたられてとり殺されちゃう
というものなんだけど、その商店主の息子が知恵遅れのバカで…出て来た妖怪・唐傘お化けと遊んで
いる内に、仲間にされちゃってのっぺらぼうになっちゃうのね。あまりのコワさに、観ていた自分は
ラストシーン、夜が明けて冥界へ帰ってゆく妖怪達の群れの中にその知恵遅れの息子がいるのを見て
…「あぁ、あいつは人間の世界ではどうしようもないから、妖怪の世界へ連れて行ってもらったんだ
なぁ…」と、映画の筋立てに一種「慈悲」にも近い物を感じて、その解釈があまりにシックリ来たの
で、その後ずっとそーゆー筋だったと思い込んでいたのね。けど大人になってネットで観帰してみた
ら、ちゃんといたわ。ラストシーンで、商店主の葬式シーンで、生きてたわ。息子。のっぺらぼうに
なっちゃうのも、アヤカシが引き起こした一種の幻想シーンだった事が判明しました。
このテの、アッチ系の世界へ観客を引っ張り込んでショックを与え、混乱、幻惑させる手法ってのは、
観客の心から色んな隠しアイテムを引っ張り出すんですねぇ。仕掛ける側の興行主としてはオモシロ
くて仕方なくなっちゃうかも。うふふふ。貴方は「ポニョ」の中に何を見ましたか?
あ、自分?ジブンは上↑の解釈で、間違いない物と思っております。余りにもシックリ来ますし(笑)。
「ポニョ」。まず自分なりに第一の「まとめ」に近いモノ。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月13日(水)19時53分32秒
返信・引用
編集済
宮崎駿という人物は、欲望の塊りだ。欲望の化け物だ。そして
その欲望は限りなく『美しい』。信じられないほど『美しい』。
同じ事は、手塚治虫についても言える。彼の人を、その辺の横町の聖人君子よろしくリボンと花束
で飾った玩具の様な骨壷に閉じ込めようとしているような者は、その欲望の底知れなさ、計り知れ
なさに慄くな。吹き出るマグマのようなリビドーの数々は、紐解けば幼児性、小児愛、近親相愛、
同性愛、動物愛、嗜虐性、マゾヒズム、暴力衝動、等々何でもござれだ。まるで欲望の総合商社だ。
そして無論、人間の持つ美しい部分…高邁な精神、自己犠牲、博愛、慈愛、公明正大、リアリズム、
夢、理想、断固とした決意、それら精神性も、並の人間が10人束になっても木の葉のごとく舞い散
らされる超人的レベルだ。
人であるのだから、欠落もある。手塚治虫の業績は計り知れない。戦後日本の漫画文化を、単身で
打ち立ててしまった。しかし、アニメーションに対して行った独善は、ほとんど「害毒」に近い。
一方の宮崎駿は巨大なエネルギーの塊りだ。彼が上陸すると街は大洪水に沈み、何もかもが水浸し
となる。それを見て「スゲー!」と手を叩く者もいれば「俺の積み重ねてきた物が台無しだ!」と
頭を抱える者もいる。
祝おうではないか、この人間の行いを。
謳おうではないか、この人間の宴を。
ともに酌み交わし、人間に生まれ、この作家達の仕事と共にある
幾年かを過ごしてこられた僥倖を祝し、杯を手向けようではないか
。
時代は混迷の度を深めている。今後、宮崎翁が予見するような大破局が訪れるのか、それとも
成人病に冒されたかのような気だるく、遣る瀬無い仮初めの平穏が続くのか、それは神ならぬ
身の知る由も無く。
しかし彼らは歌った。この自由競争文明社会に人に生まれ、人として「人の歌」を歌った。
プラクシテレスのように、ミケランジェロのように、バッハのように、ゴッホのように、北斎の
ように、この時代に生まれて、この時代の言葉で歌った。
もう一度「ポニョ」を観て、この時代の収穫に杯を手向けようではないか。
この時代に相応しく量産品の缶ビールで。缶ビールなめんな。ただしエビスに限る。
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☆8/14、付記。
ちょっと↑この投稿、後から読み返してみたら言葉が汚すぎたなぁ…。
俗物的な批評家達のブログとか読んで、引っ張られ過ぎたかも知れない。彼らに話しかけるつもり
で書いたので。この投稿自体、要らなかったかなぁ…。でもコソコソと削除したりはしません。
余談だけど…「パンダコパンダ」。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月13日(水)06時01分21秒
返信・引用
編集済
そういや今
showtime
で
「パンダコパンダ」
「パンダコパンダ雨ふりサーカス」を公開してる。
なんか7月中にはホラー映画発掘企画として、中川信夫の「地獄」も公開していたらしく、あぁもっと
早く検索しておけばよかった、と後悔する事しきり。しかし名画座まで行かなくても、どんな僻地でも
部屋に居ながらにしてどマイナー映画が観られるようになったちゅーのはイイもんだ。
「パンダコパンダ」は、たったの100えんで72時間見放題。この機会に観てみれ。
しばらくぶりに観てみたら…。もォ、胸がズキン!ズキン!痛んでたまらなかった。こんなに「胸が
痛い」幼年向け映画は他に無い。「どれみ♪」ですらココまでは至らない。楽しいコメディ短編なのに。
今の観客だったら劇中、ミミちゃんによるパンダ親子のおもてなしシーンで「テーブルの上に乗るな!」
とか「カップに口突っ込んで飲むな!子供が真似したらどうすんだ!」とか文句が出るんだろうなぁ…
とか考えたら、またもやムカムカと腹が煮え繰り返ってきた。
てめえらが「パンダコパンダ」のような作品が出るのを阻害してんだ。映画観衆の資格が無い低脳め。
今回観て改めて気が付いたんだけど劇中、授業時間のテキストに「ちびくろさんぼ」が使われていたの
も、なんか運命的。この愛らしい童話は、この映画が発表されてから15年後、軽薄かつ傲慢な黒人解放
運動家の標的となって身に覚えの無い槍玉に挙げられ、社会からスケープゴートのように追放される。
今でも、注文しないと手に入らないらしい。「パンダコパンダ」、何もかも運命的…
「ポニョ」を観て未だに『「トトロ」みたいのを作るべきだったんだよ!』…とか言っている若い人へ。
簡単な事です。この「パンダコパンダ」を観れば良いのです。観た事ないんでしょ?たったの100円。
これは宮崎高畑コンビが、若い頃に作った作品です。宮崎監督本人が言っているように本来、このテの
作品は、才気溢れる若い人が作るべきなのです。だから自分は8年間、ココでこうして延々「どれみ♪」
を応援し続けてきたのですが…それはともかく、御年配には御年配の、そして作家には作家の、その時、
その年齢に応じた『創るべきもの』があるのです。それに対して観客が「オレの望むものを作れ!」と
スゴんでみたところで、気骨のある作家はそんな脅しに屈するはずもありません。無理矢理に作らせて
みたところで、昔の作品と同等の物が仕上がる可能性などゼロにも等しく。
だから「パンダコパンダ」を観れば良いのです。この小品の価値は色褪せない。いつまでも色褪せない。
「おばあちゃんへ。ミミ子にパパができました。こどももできました。」←30年間、観るたびに大爆笑。
ぱんちゅが1ドット見えたの見えないので騒いでる萌えオタも、コレ観て卒倒しろ(笑)。
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ついでの上のついでの話。
Showtimeでは今
「じゃりン子チエ」
も公開しているので、無料視聴できる1話を観てみたんだけど…
いやァ、これまた面白くて面白くてタマラン!コチラは完全に高畑勲監督の独壇場で、宮崎監督は
ノータッチなんだけど、サイコーの原作との相性も抜群で高畑演出が水を得た魚のように走りまくり!
この作品を知らない人のために、どんな話かといえば、
小学5年生の主人公の父親は、娘の留守中に家捜しをして金をせしめようとするが発見できず通り
すがりの暴力団員を恐喝し、殴打暴行でせしめた金で賭博三昧。違法賭博の現場も児童向け番組で
堂々と描写。しかも不正賭博で金銭を巻き上げ、嬉々とする彼が物語上で罰せられることも無い。
一方そんな父親の素行を「育児の失敗」として責める主人公に対し、その祖母は贈賄(ぜんざい)で
懐柔を図ろうとする。主人公は労働基準法、児童憲章完全無視の飲食店経営を生業とし、暴力的な
酔客に対し、本気で鈍器殴打。さらに嫌がらせに来た同級生の少年も殴打。木材でいたいけな少年
の頭頂部を痛打する瞬間もノーカットで活写。主人公の父は、肉親に作り話で金品をせびり、その
咎を責められて肉親同士の乱闘になる。主人公はその間に、経営利潤をごまかして着服。
例えばコレが「天才バカボン」であったとしても、人によっては眉をひそめるような内容だろう。
しかし「浪速のド突き漫才である」という一点だけで見過ごされてしまっている。
「型」でしか物を見れない、言いがかりが大好きなクレーマー視聴者ッてホント、バカね〜(笑)。
このようにして作家は、本当に描くべき「人間の姿」に肉薄しようとしているのだ。
いやァ、サイコー。ホンっト、痛快。この人達の創るモンは、やっぱたまりまへんわ。
※ムロン、ShowTimeでは「ハイジ」も公開中。「コナン」は8月15日まで。
「ポニョ」=ハイジ論。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月12日(火)00時15分7秒
返信・引用
編集済
「ポニョ」は、ハイジである。
キャラクターのポニョが、と言ってるんじゃなくって、作品そのものが。
どうやら本作に対して不特定多数観客の態度表明もまとまってきたかな…と見受けられる昨今、
批評家サイトなどを見回してみても、社会の枠組みの中で呼吸をし、おまんまを食っている者
の中には、この作品の深部を照らし出し収穫のある検証に成功している者は、ザッと見回した
限りでは、まだいない。…まァ膨大な作業になるだろうから、それには批評本の類の出版とか
を待たなければならないだろうけど…大抵のトコは作品の外郭をぺたぺたと撫で回して、自分
に取り扱える範囲のちょっとした出っ張りを見つけて、過去のアニメ表現に比類する物を引っ
張り出して比較論でお茶を濁すか、それとも、そのドラマツルギーもヘッタクレも無い作り方
そのものを「単なる脚本の不備だ」と切り捨てるか。そんな感じに陥って、内部までは踏み込
めないでいる。そこで述懐した皮膚感覚は「ポニョはオバケだ」「キモチワリー」程度のもの。
もしくはもっと下世話な評論家のように、一々作品中の矛盾、制作者が意図して描いた表現の
揚げ足をとる事で、同じく作品の矛盾を嚥下出来ない同様の境遇を持つ読者の顔色を伺うよう
な俗物もいる。そして口を揃えて言うには「表現のマナーに反している」「観客を不安に陥れ
るな」みたいなコト。まぁ、この社会の枠組みに食わせてもらっている者にとっては、当然の
ところと言うべきか。しかし、作品内容を咀嚼も出来ないで「子供の教育に悪いザマス!」と
しゃもじを振りかざす主婦達に迎合して、おもねったところで、それで何か得る物はあるのだ
ろうか。
フランクフルトを思い出す。「アルプスの少女ハイジ」シリーズ中盤で、主人公ハイジが拉致
同然に連れて来られた虚栄の都。彼女はココで、親友クララと出会う事になるのだが…同時に
傲慢、陰湿、慢心に満ちたセレブ社会に押し潰され、がんじがらめに絡め取られて窒息してゆく。
児童向けアニメの朗らかな8歳の主人公が、鬱屈し、心の病の淵に立たされ、最後には銃口を
向けられて自閉症に陥る所まで行く。
いったい、フランクフルトにいかほどの価値があるのか。先人達の積み重ねてきた生業の集積、
文化の歴史、人間同士の取引を円滑に行うシステム、威厳、知恵、人間の試みの証しそのもの
の重厚な地層。それはあるだろうが、ハイジという一少女にとって、それが果たしてどれほど
の意味があるのだろうか。
「異分子はトラブルの種だ」「規格外の者は社会の流儀に合わせろ。さもなければ排除する」
そう主張するフランクフルトの住民達は、その依存する価値基準に傷を付けられまいとして
いるだけではないのか。俺達が苦労して窮屈な社会の型に身を合わせてきたのだから、お前も
従え、その枠の中で能力を発揮出来たら認めてやる、と儀礼を要求しているだけではないのか。
そして、その流儀さえ守っていれば俺も社会から認められる、俺は忠実な良いしもべですよ、
と表明したいだけではないのか。ちょっと恣意的にアジってますコレ(笑)。
無論フランクフルトの中にも人間性に溢れ、何とかこの社会の枠組みの中で良い結果を残そう、
と努力していた者もいる。作中登場人物では、クララの父、そしてその祖母。しかし彼等が
懸命に努力し、仕事に縛り付けられた過密な日々の中で、いかにクララの身をあんじ愛を伝え
ようとしても結局、彼女を立たせる事は出来なかった。離れた場所から必死に愛のテレパシー
を送る程度しかかなわなかったのである。
彼女の心に直接触れる事は出来なかった
。
一方のハイジは田舎者で、無作法である。パンツ丸出しで山羊と一緒に転げ回る。手づかみで
肉料理を食べようとする。使用人と対等に遊ぼうとする。白パンをクローゼットに隠してカビ
を発生させる。あまっさえ天井裏からネズミを拾って来て飼い始める。フランクフルトの番人
ロッテンマイヤーとしては卒倒するような奇行、蛮行、掟破りの数々。
しかし最後にクララを立たせる事に成功したのは、彼女だった。
彼女の野放図な能天気さだった。枠に嵌り切れない生命力だった。他人の顔色を伺うより先に
行動している、脊髄反射的、動物的な愛情だった。
再び陳述しておきますが、私は今回のこの作品で「救われました」。本当に、救われました。
しかし小山高生さんの脚本では一度も「救われた」事などありません。
ぶらざぁのっぽの門下生からは、幾人も素晴らしい脚本家が出ていますが…あと「ポニョ」に
感化されて新人物書きが演出作法無視しまくりのメチャクチャをやり始めたら「あ〜あ…」っ
てなモンである、という事は再確認しておきますが…それはともかく。
社会の流儀に沿うだけではいけない。それはアニメーションの本懐ではない。勿論、この世界
の枠組みの中で金銭を授受するのだから、特に若い内はその中で苦しんで結果を残し、周囲の
者を納得させ、敵対者をも屈服させる能力の発露を体現する事は必須だろう。しかし、それが
目的になってはいけない。それに寄りかかってはいけない。それを「口実」にしてはいけない。
この作家は作品を通じて、そう訴えたいのではないだろうか。
アニメーションを捕まえてきて、展肢台に磔刑にするような真似はするな。自由な表現の翼を
もぎ取るな。ハイジを窒息させるな。彼女は野放図に、奔放にアルムの野山を駆け回ってこそ、
虫や小鳥と当たり前のようにお話してこそ、大人が眉をひそめるような奇異な行いを当然のご
とく繰り広げてこそ、最後にはクララを立たせる事ができるのだ。
そう告げたいのではないだろうか。
私は改めて、この作品を心より応援します。
※ただし。こんなやり方が通用するのも、ハイジが8歳の天使のような少女だからですよ。
思春期過ぎてハイジの様な行動をしてたら単なる精神薄弱者ですよ(笑)。脚本家志望の
皆さんはモチロンお判りですね。
その意味では監督、今回はかなりギリギリのセンを狙い撃ちましたね。
=============================================================================================
☆最近になってポニョを観る人もいるみたいなので、ちょっと「初級編鑑賞の手引き」などを。
おせっかいですね〜、我ながら(笑)。これまでの流れから離れた、初級者用マニュアルです。
例えるなら英国風ガーデン。美しい庭園の遠望を眺めて、ああキレイねと溜息をつき、満足して
帰る者もいる。しかしある者は庭園の幾何学模様を見てハッと気付く。「あッ、これは迷路だ!」
その者は喜び勇んで迷路に踏み込んでゆく。「へへッコレが迷路になってるなんて気付いたのは
俺くらいだろう!見事に解き明かしてアッと言わせてやる!」しかし、さんざ迷ってみてもこの
迷路には、ハッキリとした謎解きも、明快なゴールも無い。
そこで庭園の遠望だけを見て満足した者の中には、そんな迷路の中で考えあぐねている者達に
向かって「考えちゃダメ!この映画は素直に観るの!」と叫ぶ者がいる。警告を発しているの
だろうか?そんな、庭園の概要を眺めただけで直感的に制作者の意図を汲み取ってしまうよう
な、そんな観客もいたのだろうか?最近自分は、そう感じる。自分は↓以下の通りさんざ踏み
迷った口なので(それでも「とっても楽しかった」トコロが、自分が本作に向いている証明だと
思いますが)、そんな観客がいる事は漠然とした想像の範囲でしかないのですが、特に女性客の
一部にそんなタイプがいるような気がする。
ともあれ、迷路で迷いに迷ったあげく出口が無いのを知った観客は騙されたと感じ、怒り心頭と
なる。「説得力あるトリックを思い付けなかっただけじゃねえか!誤魔化しの偽物だ!」…と。
しかしそうして怒り狂って家路についた者の内、ある一部は、その夜に迷路の風景をつらつらと
思い返しているうちに突然に気付く。
迷路で迷っている内に見た花々の数々、その色、匂い、そして視界が開けた処に現れるあの噴水、
さらに最後に道が細くなっていって行き止まりになってしまう部分まで含めて、それら全てが答
だったんだ、と。 そんな映画。持ち上げ過ぎですかね?(笑)
============================================================================================
☆8/13、付記。
自分なりの解釈が出揃ったので、次回第6回鑑賞までの場繋ぎヒマ潰しに、久しぶりに本掲示板
お得意のフラチな妄想遊びコーナーなんてどうでしょ♪。ドンドンドン♪ぱふーぱふー♪
ポニョに隠された暗喩の一つとして宗介=吾郎監督、フジモト=宮崎監督として、二人が握手して
終わる物語、と読み解いてみるのはどないだ、というおアソビはたまにネット上で見かけるけど…
同様にポニョ=宮崎監督、宗介はあの監督様、とコジツケてみるのも面白そうじゃない?
宗介監督は責任感の強い、知恵と技術の人。映画技法の塊り。
ポニョ監督は、本能と才能の人。そのエネルギーと表現力は大怪獣クラス。
ポニョは宗介に見初められた事で、彼と同じ人間になりたい、と決意します。
「宗介んとこ、行くー!」東映動画制作デスクは大弱り(笑)。ポニョは彼のもとに押しかけた事で
彼に認められ、人間になります。張り切ったポニョは魔法使いまくり。ひとたび彼が本気を出せば、
天変地異を起こすのなどお手の物。そのパワーは大地を引き裂き、天空をも揺るがす。巻き込まれ
ちゃった人は仕方が無い、運命だと思って諦めてくれ。代わりに宗介はポニョに、人としての暮ら
し方を教えてくれます。ガスや水道、自家発電機の使い方。
二人の蜜月は続きます。小さなポンポン船で出航(エンジン出力は二馬力)。「宗介、楽しいねー」。
色んな人と会い、経験を積み、しばらくは順風満帆でしたが、やがて試練が襲って二人は別々に
仕事する事に。ポニョの魔法の力は相変わらず絶大だけれど、やっぱり理知的な宗介のサジェッ
ションが無いと、荒れ狂うエネルギーの制御のしようがありません。目的は果たせど、辺り一帯
水浸しになってしまいます。一方の宗介も、自分一人の力では、天変地異級ヒットは望めません。
二人が再び力を合わせるには、宗介が「お魚のポニョも半魚人のポニョも人間のポニョも、みんな
好き」と誓いを立てなくてはなりません。かくして彼はそれを果たし、ポニョは宗介にキスするの
でした。めでたしめでたし。
そろそろ、まとめに近付いたか、と思います…「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月10日(日)07時13分2秒
返信・引用
編集済
☆個人的理由で、またちょっと間が空きました。
トキ婆さんをはじめとする老人達の戯曲上の役割が判った気がします。
それは、
この映画の「主観」。まさに主軸の視点を提示しているのではないかと。
「5歳児の素直な視点で観れば、感覚的に理解出来る映画」だなんて、とんでもない。
これは「老人」の視点で観るべき映画なんじゃないでしょうかね。
老人の視点で観れば、説明など何も要らない。老人は全てを体験し、苦しみ、切り抜けてきた。
暴力的に生命が溢れるこの世界の意志も、わがままで自分勝手な人間達が、いかにいとおしい
存在であるかも、全て知った存在。映画も、その上で観てくれる。この映画の感想ブログなどを
見ていると、壮年以上の観客が涙していた目撃例が散見されたりするのもコレと無関係では無い
ような気がします。 ところで。
この映画で優しく諭される主題の一つには「甘えを捨てましょう」というのがあると思います。
『母親はどんな危険からも子供を優しく羽交いにして守るべきものだ、という甘えを捨てましょう』
『映画は常に観客の奴隷に従事するべきであって、その快楽中枢を刺激する仕事にのみ専念しなけ
ればならない、という甘えを捨てましょう』
『テーマは口をあんぐり開けて待っていれば優しく絵解きされるものだ、という甘えを捨てましょう』
等々。自分はコレまで本作を↑このように多分に刺激的で、挑戦的姿勢に満ちたものだと感じてい
ました。しかしそれは違いました。「老人」の観点で俯瞰してみると、いかにたおやかな愛情に満ち
満ちているものか、それが身に迫ってきて。
ここで重要なのは「俯瞰する」という事。人生の真っ只中で悪戦苦闘するナウシカやアシタカのよう
な視点は捨てましょう。その上で最早全ての苦役も、使命も、想いも大方やり遂げて、そんな桧舞台
からは退役した「人生の観客」達が「自分からは手を出せない」、うつし世の舞台で、若い生命が
右往左往している様をナナメ上空から俯瞰している、そんな主観で眺めてみれば判り易いです。
リサの暴走運転は「危なっかしい」。拾った金魚に対する宗介の扱いの一部始終も「危なっかしい」。
彼らは何も見通す事は出来ずにただオタオタと、時には何の根拠があるのか決然と間違った方向へ、
賑やかに「生きて」います。それを鳥瞰図で、指差して微笑ましく楽しむ映画。
そうか。…「老人の視点」が一番重要だったんですねえ…「ポニョ」、ホントに咀嚼すればするほど、
ドンドン印象が変わってゆくわ…。
余談ですが、この映画を見るのに「正しい姿勢」なんてありません。当然、観客ごとに違うでしょう。
アタシが↓下で展開していたドタバタ、最初は「優しく朗らかな児童向けにして欲しかった」なんて
欲望を開陳しつつ、その直後に作中に忍び寄る「死の影」に怯えたり、様々なあーでもないこーでも
ないを展開していた過程。それはアタシにとって絶対に必要なものでしたし、「ポニョ」という作品
を観るという行為の上で、とても楽しいメインアトラクションです。ゼヒお試しを。
本題に戻りますが、宗介は、そんな「上空からの視線」にとってアイドルです。この映画こそ、真に
「純真な少年像」を描いたものでしょう。過去の宮崎作品で言えば、コナン。コナンから怪力と生命
力とマンガ文法的ヒーロー能力、それらすべてを奪い取って、それはポニョに与えた、と思えば判り
易い。では、そうやってコナンの主人公属性を根こそぎ奪われた宗介という少年は何なのでしょう。
何が彼に残っていて、それは、どんな象徴性を持っているのでしょう。
やって来た異形を敵視しない。生命あるものの面白さ、興味深さに「面白い!」と眼を見張る。わァ!
水吹いた!わァ!ハムが好きなんだ!軽佻浮薄な少女の誘いには乗らない、その誠実さなんかも上空
で眺めてる婆さん観客なんかにとってはキュ〜ン☆となっちゃうでしょうね(笑)。
そして単なるペットだった異形は女の子となって戻ってきて、彼に「異性」が与えられます…。始まる、
その人生。他者と意志の伝達を始めます。語るべき事はいくらでもある。水道ガス、テーブルマナー、
人が人の身を心配して空に放つ電波、そして初めて母の保護を失い嵐の夜に置き去りにされる、その
恐怖と不安。しかし心配をよそに船員帽を被り敬礼する彼の中に芽吹く力強さ、責任感、正しい意志。
「いじらしい」。
そう、「ポニョ」の底流に貫かれている、観客が沿うべきベースラインの情感は「いじらしさ」に他
ならないでしょう。自分は「老人の視点」で観る事で、ようやくその確証を得ました。何観てたんだ。
やがて、幼い二人の新婚旅行、人生への仮の船出が始まります。
「なんだコイツ?ウチの宗ちゃんにオンナが出来た!しかも得体の知れないお魚だ!」…と思っていた
ナナメ上空からの傍観者も、赤ん坊に対するポニョの扱い…彼女の中に芽吹く生命への祝福、いとおしみ、
全てに溌剌とした活力を与える無限の生命力に、ああこの子は宗ちゃんの運命の相手となっていってくれ
るかも、と初めて期待を抱きます。
再び余談ですが、ポニョはハイジ。ハイジから洞察力、天使性、自己犠牲などを取り去って、宗介に
与えたもの。…そうか…。また新たな発見が…。その、それぞれの
超人的属性を取り出して交換した
コナンとハイジの婚姻譚だったんだ…俺が心底惚れちまう訳だ…
。
へへッ「カリオストロ」から観始めて「ラピュタ」が最高、とか言ってるモンにゃ何に感動している
のか判んねーだろ〜(笑)。
閑話休題。そして、いよいよ彼がその人生で始めて対面する「はじめてのおつかい」的冒険、試練が
始まります。魔法の喪失。それまで彼を保護していた無敵のポンポン船は重い荷物でしかなくなって。
同時に、親父の真似をする事で「強い男」を演じるコスチューム、心理武装となっていた帽子と双眼
鏡も縮退してしまって。裸足でぺたぺたと歩いていかざるを得ない苦境へと立たされます。上空から
の傍観者達は、そりゃもぉ気が気ではないでしょう。
この監督、このシーン…これまでの作品の中では「火垂るの墓」なんかも確実に下敷きに入れてます
よね…。同様に焼け跡を裸足でぺたぺたと歩いていかざるを得なかった幼い兄妹…そして彼らの行く
末に待っていたのはアブクになり、クラゲやエビとお友達になる運命でしかなかった…。そんな兄妹
達に今回の映画では「確実な解答」を与えてあげたかったのかも知れませんね…と自分は思います…
そんなこんなも含めて、宗介を実際の孫のように思っている上空からの視点達は、まともに観てはい
られないでしょう。母すら失い、そんな彼を優しい目線でいたわってくれた隣の"母の代替物"ですら
トンネルの中で失うのですから。
そして展望公園のシーン。…アタシには、ようやっと、ようやっとトキ婆さんのキャラが判った気が
します。それもこれも「視点」を変えて反芻したおかげ。「ポニョ」はこうして、何度でも楽しめます。
しかし…トキ婆さん…。
物凄い人間的なヒトだったんだ、この人
。
映画の展開上、そのテーマの流れから言って、ここでトキ婆さんの優しいかいなの中に彼が抱かれて
いっちゃうのは間違い。本当はフジモトの言っている事の方が正しい。まァどっちに従ったところで
宗介の中に自覚と決意は芽生えなかった、ココの正解は右に行ったら良かったかそれとも左か、では
無くて心の中、それが正しい答、というアタシの考えは変わらないんですが…トキ婆さんはそんなん
知ったことじゃない。監督が誘導しようとしているテーマ?何の事だいそりゃ?!宗介の自立のため
の試練?あたしゃ聞いてないね。
宗介が危ない!!宗介は私が護ってやる!!
思わず立ち上がり歩き出す
トキ。魔法なんか関係無い。
宗介、ここまでおいで!!跳んでおいで!!宗介、おいで─────ッ!!!
ここで彼が、その胸に抱かれていったら何もかもダイナシなんですが、ムチャクチャに暖かい闇雲な
"母性"をココでトキ婆さんは曝け出します。子を護りたい。ただただ、己の身を投げ打っても、子を
護りたい。その母性の美しさ。この映画は、少年が保護してくれる存在から切り離され、単身でこの
世界に対し「Yes」と告げられるかどうかの物語。だからリサと彼も、互いを名前で呼び合うしかなか
った訳なのですが…しかしきっと、エンドマークまでにココで監督は描いておきたかったのではないで
しょうか。「無垢な母性の美しさ」を。それはポニョの様に無自覚で、止め処ない欲望かも知れない。
しかし美しい。抗いよう無く美しい。そして、そんな「母性」…これまで、他でも無い本作で監督が
問題視してきた幼い子らを羽交いにして窒息させるような、その幻想によって自分も安全神話を得る
ような利己的な母性でなく、本当の母性とはいいもんだ…そしてこの時点で監督はそんな多くの母親
達に対しても、改めて許し、態度を改め、尊敬の眼を向けなおしているのではないでしょうか。
多少恣意的で、独善的な見方かも知れませんが、敢えて感じたままに書いてみました。
ああなんて今回は「優しい」映画なんだ…。優しいなぁ…。大量死の可能性も描いていますけど(笑)。
んで、ラストシーン。もし、斜め上から宗介を見つめ…彼をアイドルとして恋する視線で追っていた、
そんな視線達。実際の母のように直接抱き締めてやる事はかなわないけれど、幸福になっておくれ、
健やかであっておくれ、この世には恐ろしい事や災いも沢山あるけれど、でもそんな物に負けないで
生命をまっとうしておくれ、…そんな風に願っていた、沢山の視線。この世が誕生してから幾億年、
幾兆、幾京もの世代に渡って積み重ねられてきた、あまたの視線。その視線にとって、この世を受け
入れるか、との問いに、彼が刹那の迷いも無く、穢れも曇りも無い瞳で「うん!」と答えてくれたら、
どんなに嬉しい事でしょう。どんなに救われる事でしょう。この時点で、あの「火垂るの墓」の兄妹
達もきっと救われるのではないか、と思います。
自分は、この映画を「老人の」視点で再検証する事で、やっとこの解釈に辿り着きました。
「視点」って大切だなぁ。しかしこんな作業を何度やっても、いくら繰り返しても「楽しい」所が
この映画の真に凄いところ、他では真似出来ない、かけがえのない「価値」でしょう。
他ではこんなモン、見た事もない。こんな児童向け映画のフリした文芸作。
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上↑では「こんなモノ観た事ない」…とか書いたけど、児童向けに限らないなら、昔はけっこ観て
いた気がする。ここからはちょっと本筋を外れてカルトな寄り道話なので、笑って読んで下さい。
本掲示板でも以前にチラッとだけ書いた事があるんですけど、
中川信夫の「地獄」
。
「ポニョ」って自分としては、この映画を観た後の感覚に似てる。その映画の内容、成り立ちも。
コレ、理屈もへったくれも無くって、ただ観客を「ええッ!?」と我が目を疑うような展開で煙に
巻いて、悪夢のような描写を執拗に繰り返した挙句に、唐突に何の説明も無く終わっちゃう映画。
いや「映画」とは呼べない。キワモノ。悪趣味な見世物小屋。そこには「ポニョ」のようなフィル
ムに対する敬意も、真摯な態度も、職人のプライドも感じられない。メチャクチャ。怪作中の怪作。
…しかしただ、あまりのチャチさ、キワモノさ加減に嘲笑まがいの薄ら笑いを浮かべて劇場を後に
した、その夜に徐々に映画の指し示した内容の、本当の意味が判ってきて薄ら寒くなってくる…。
そんな映画。1960年、新東宝作品。
…昔はこんな、脚本もヘッタクレも無く「感覚だけで撮った」映画が溢れていたんだろうなぁ…と
思って、敢えてココで書いてみました。日本映画黄金期、こんな異色作、奇作、鬼作が、まだまだ
発掘されずに埋もれてるんだろうなぁ…と。
撮る監督に「才気」が無かったら、たちまち素人以下の破綻フィルムになっちゃうだけのキワモノ。
その才気も、てんであてにならない。残虐場面もとほーもなく子供騙し。でもコレが宮崎監督以下
ジブリの精鋭スタッフによる見事な職人芸で映像化されていたら…と考えると、恐くて寝られない。
この映画一口で言うと、普通の現代劇のように始まって因果な人間達を色々描いた上で、物語中盤
で唐突に、何の説明も無く登場人物全員が死んじゃうんです。ゴーインに脈絡も無く一斉に。んで
始まる地獄行脚…主人公は気弱な奴なんだけど、気弱なばかりに悪友の地獄の道行きに引っ張り込
まれて苦しみぬき、ラストも救われないまま映画は唐突に終わる…という、何とも因果な筋立て。
昔に読んだこの映画のレビューで評者が、あまりの事に内容を理解し切れなかったのか「ラストで
出て来た輪廻の水車は主人公の転生を示唆しているのか」とか書いてて、自分は「いや、違う」と
思ったのを覚えています。あの輪廻の水車の上で赤ん坊に必死に手を伸ばす描写は、産まれて来れ
なかった我が子に対する後悔だろう。主人公はあそこでああして、救われずに永遠に回り続けるの
だろう…とか思いました。こんな風に映画の解釈が色々に分かれちゃう辺りが似た造りだなぁ、と。
うふふふふ。「ポニョ」ってコワいですね。真夏の夜にふさわしい話題ッてことで、一つ。
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「ポニョ」の正体、判ったかも!!!
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月 6日(水)01時05分22秒
返信・引用
編集済
「プロフェッショナル」を観た。なんかNHK取材班にも少し戸惑いがある様子?で、コレ通常尺の
50分にも収められるんじゃないかなぁ?…と思わないでもない仕上がりかも知れなかったでしたけど、
でも流石NHK.日テレと違って収穫充分!様々な有用な事実、重大な示唆が与えられました。
この番組上では「母の懐への回帰」がテーマとして取り上げられてましたけど、それは「ポニョ」と
いう映画のごく一部を小窓から覗いた程度の事でしょう。番組としては山とオチを作って、製作者側
からの視点も公開しないとドキュメントにならないしィ。
…しかし、自分にとっての収穫は、映画の副読本としては充分過ぎるほどでした。大収穫。収穫が
あったのは番組前半、アニメーターの地獄のような作業がコツコツと繰り返されている場面。
あたしは叫びました。「ポニョ」という映画の正体がつかめた気がして。
あーッ!! そうか!!!"絵描き"
が"絵描き"に回帰したんだ!!!
それだけの事なんだ!!
なんだジブン、自分で答、もう書いてたわ。↓下で書いた、何万枚ものアニメーターの丹念な手数
にこめられた、叙情的な感動。ソレに今回は身をゆだねましょう、ッてことだ。なんだあ、答えは
至ってシンプルだ。ジブン、既に答に辿り着いていたではないか。あ〜〜遠回りしたぁ〜〜。
もうこの映画は「論理」も「言葉」も放棄したんだ。けれども「表現したいこと」の実りは芳醇。
秋の葡萄畑のように、たわわに実ったみずみずしいイマジネーション、イメージの洪水だ。
ココで、ある者は言うだろう。『しかし「言葉」と「構成」、観客に何かを伝える努力を放棄して
しまう事は「物語の崩壊」に他ならないではないか?映画の最も重要な構成要素を省いてしまう事
は、プロの映画作家として背任行為。番組中で自ら語っていた「人を楽しませたい。楽しませられ
なければ、自分の存在価値が無い」という言葉と矛盾するではないか。怠慢以外の何者でもない』
それは違う。観客は充分に楽しめるように創られているし、そのテーマも真摯で感動的だ。
「物語」を通して、観る者に順序だてて「説明」する叙事詩的作劇、鑑賞行為。
「一枚の絵を楽しむ」ような叙情的創作、鑑賞行為。そのどっちが価値ある行いか?どちらがより
高尚か?など論じるのは全くナンセンス。時間の無駄。相手は単なる"天才的絵描き"なのだから。
アニメーターの引く線の一本一本にに想いを感じ、そこから何らかの霊感を受けましょう、フィルム
の中に風を感じ、それを描いた人がこれまでの人生で見て来た風景を追体験しましょう、出来立ての
ラーメンの中にハムが入っていたら生きている喜びを噛み締めましょう、作品中での現実時間が崩壊
し幻想が侵食し始めたら、安心してそれに身をゆだねましょう。そういう事だ。
そういう事だとするなら、問題点も無くはないが…。子供が無反応。また、やはり「コナン」や
「カリオストロ」の頃のような胸躍る物語はもう創作し得ないのか、という一抹の寂しさもある。
子供に対しては、そりゃこんな情報や映像の氾濫している国では、子らにこの価値を見出させるのは
簡単にはいかないかも知れない。でも小学校の美術室に掲げられた一幅の絵のように、いつか、もし
かしたら、ある日ある子がそれに近づいて…という期待はあるわね。決して難しい内容の表現では
ない訳ですし。またコレ、情報が少ない開発途上国の子らに見せたら激烈な反応が期待できると思う
…けど、それはハリウッドの戦争モノもいっしょかぁ。二つ目「過去の物語への諦めきれない憧憬」
に関しては…。コレは、仕方が無い。作家が「もうオレの観客は、オレの映画から卒業すべき時が
来た。売り切れだ、帰ってくれ。もしどうしても観たいのなら別の奴に頼め」と言ってるんだから、
仕方が無いでしょう。スッパリ諦めましょう。
余談だけど…。
アニメート=アニミズム。もしこの世界を創ったのが何らかの精霊の力だったと仮定したなら、
そして日本の古代信仰のように、草の種一粒、石ころ一個一個にまで、それを創った精霊の想いが
宿っているとするのなら、それはアニメーターがやっている延々、精魂込めて繰り返している作業
と同じ事ではないか。背景の中の石ころ一個も、絵描きが描かなければ存在しない。ならば、その
観念の中の世界…フィルム上に現れたアヤカシの世界は、現実世界の成り立ちと等価なのではない
か?そこで母を立たせ、歩かせれば、それは時間をも超克し、母の元にまで届くのではないか?…
なんつって。御大、ソコまで行っちゃってるのではないでしょーかね(笑)。
そんな脇道話はともかく。
しかしそーか、これでスッキリしたぞ!!!
"宮崎駿"という人物の物語は「映画監督」というシガラミ
の鎧を脱ぎ捨て、「一アニメーター」に戻ってゆくことで
完結するんだ!!!
…ああ、なんだ。そうか。これで判った。これでやっと「ポニョ」という映画の正体がつかめた。
例えるなら、こうだ。ある天才的音楽家がいた。彼はオペラの一奏者から頭角を現し、次第に一大
オペラ叙事詩の中心奏者にまで登り詰め、指揮者と奏者の兼任、果てはオリジナル歌劇のプロデュ
ースまで手がけるに至った。観客は、彼の生み出す懐かしくも新しいオペラの解釈に熱狂した。
しかし、その演目が国家の代表格といわれるまでに至ると、次第にシガラミも増す。あるオペラ
の内容に関しては「"神々の黄昏"の解釈はそうじゃないだろう!」と、観客の間で大論争が勃発し、
貴族のお偉方は「こんな有名になったなら、国の意向に沿った物を創ってもらわなきゃ困る」と
迫った。観客は、彼に「国を背負って立つ代表」の看板を背負わせ、時に憧れ、時に貶めた。
そして、彼の最後の新作歌劇の発表の日が訪れた。期待に輝く幾千の瞳の前で、歌劇の第一幕は、
聴客を充分に満足させ得るものだった。しかし第2幕が開演されると…舞台上に座っているのは
彼一人。その男は、黙って一本のフルートを吹き始めた。 いつまでも、吹き続けた。終演まで。
…こんなトコですかね?
いや〜、そのフルートの原初的な調べの、見事な事と言ったら。魂を根底から揺り動かされちゃ
いましたよ。ええもん観た。なんか周囲の客はポカーンとしていたけど(笑)。
あ〜良かった。これで少なくとも自分個人は、得心がいった。今夜はぐっすり寝れそう。
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☆8/7、付記。
自分なりの解釈が整ったので、落ち着いた〜(嬉)。
これからは、残る未消化部分を、満ち足りた気分でゆるゆると楽しみながら解いてゆきましょう。
この映画が「パンダコパンダ」を下敷きにしている事は、宮崎高畑ブランド作品の古くからの愛読
者なら、すぐに判る事だと思いますけど…これについても、ちょっと。
「パンダコパンダ」は、幼児向けファンタジー映画。幼児をキャッキャいって喜ばすために、彼ら
の視点まで降りていってやって創られた映画です。だから、その設定や描写も大人から見れば少々
エキセントリック。…ホントはコレは「マンガ文法」なだけでエキセントリックでも何でもないん
ですが、まァココではそーゆー事にして話を進めます。映画の概要。主人公ミミちゃんは、冒頭で
イキナリお婆ちゃんがお出かけするので「一人暮らし」を始めます。そこへ現れた闖入者、パンダ
親子。ミミちゃんは仔パンダ・パンちゃんのお母さんになって、3人暮らしを始めます。…どうです、
素敵な幼児向けファンタジーでしょう。その演出意図を汲み取れば、イキナリの幼児の一人暮らしは
「ワクワクする冒険生活の幕開け」に観客の幼児を置くため。パンダがやって来ての同居生活を周囲
の人々も笑って受け入れてしまう理由は「パパンダもパンちゃんもいい人。だから皆んなも必ず好き
になるに違いない」というミミちゃんの気持ちの代弁。こんな風に説明出来ますわね。ホントはこん
なモノ、マンガファンなら「あははは」と笑って済ませ、幼稚園の保母さんならニッコリ幸福そうに
微笑んで受け入れられそうなもんなんですけどねー。
そう。受け入れられない人達がいるんですよ。
「幼児を一人切りにして外出するなんて、あの婆さんは何を考えているんだ!」…とか、
「あんなパンダが幼児と同居していたら、警官は発砲するのが当たり前だろう。リアリティの喪失
だ。そんな映画は俺は認めない!」だの何だの言い出すあッたま悪りィのが。昨今。
「魔女宅」初見の時も思い出しますねぇ。アタシは冒頭、旅立ちのシーンで箒にまたがったキキが
意識集中して、重力をカットする描写で「おお!」と喜び、「現実からの飛翔感」…「現実世界の
自由度をちょっとだけ開放してやる事で生まれる開放感」をダイレクトに楽しんでいたものだけど、
そばに座っていた女性観客が終演後「最初ワケが判らなくてビックリしたけど"ああいう人もいる"
世界だ、って事なのねー」と話しているのを聞いて、なんてアタマ固いんだコイツは、と思ったり
した事も思い出されたり。
「パンダコパンダ」続編「雨ふりサーカス」の方でも、きっとあったのでしょう。洪水で浸水した
街の上空、鏡のように澄んだ水面を、まるで飛行するように航行してゆく、夢のようなシーン。
あの場面を観て「実際の洪水は、泥のような汚水に浸食され、町は滅茶苦茶になってしまいます。
もっと災害被災者の気持ちを考えて下さい」…と言ってくるような意見が。きっとあったのだろう
と思います。
このような「架空世界を仮定する」ところから物語を始める、その前提上でそこに寓意も乗せられる
という「虚構のテクニック」。そんな物も知らない観客が増えている…本も読まないし、いい映画も
観ないから。だからハリウッド映画などは、まるでエイリアンでも相手にするかのように単純な展開
…「A→B→C→D」と、まるで化学の授業のような構造式に乗っかって「説明」されるような作品
が大勢を占め、それで当然のごとく衰退を始めてしまっています。
しかも「パンダコパンダ」などは幼児向けファンタジー。コレが制作された大昔などは、まだこの手
の作品は純然と子供達のものでした。しかし昨今は大人の観客が大量に流入し、自分達の生活範囲…
貧しい文化体験しかない者に理解出来ない物には蓋をしようとします。「俺達の流儀に合わせろ!」
と強要して。配給会社もスポンサーも、そんな観客のニーズに合わせるべく、そんな子供向けファン
タジーにまで簡略化、模式化の波を押し進めるべく圧力をかけてきて。自由な想像の翼をもぎり取り、
チンケなマクドナルドハッピーセットの中に押し込めようと画策します。
フと、星新一(あれ?筒井康隆だっけ?)の短編、「お花の中には小さな妖精さんが住んでいるのね」
と呟いた幼児を社会不適合者として核実験場へ送り込んで抹殺する未来社会の話なんかも思い出され
たりも。
「このままじゃいかん!」そう思ったんでしょうね。ある映画作家は。
だから、今回の映画「ポニョ」は、その辺かなり皮肉を含んだ造りになっています。
作中に散りばめられた小さな謎は、同じ作中に必ず「答え」が用意されています。探してみて下さい。
しかしこれらの謎は浅い迷路のように、解いても迷路ハウスの出入り口に再び戻ってしまうだけで、
観客を作品の深部へといざなってはくれません。
解きがいのある大きな謎もあります。「何故親子同士名前で呼び合うのか」「何故リサはDQNぽく
描かれるのか」など。しかしこれらも、自分なりに結論を出してみても作品理解のための足掛かりに
なる程度で、最央にある「作品のコア」まで行き着かせてはくれません。
では一体何が、観客にとってこの映画の最奥部を感じる力となってくれるのか。ポンポン船出航以降
の幻想シ−ンを、観る者の血となり肉となるまでに咀嚼させる「力」となるものは何なのか。
「叙情」です。
「パンダコパンダ」を観て、ラストでミミちゃんもパンダ親子も一緒にいられるようになって本当
に良かった、という気持ち。「雨ふりサーカス」で、ボクも箪笥に乗って大洪水の町に漕ぎ出して
みたい、と心躍らす気持ち。ダイレクトに作家の心を感じれば、その伝えたい物もきっと、心の中
に流れ込んでくるものと信じます。
そこで、やっと制作者は、やっと「子供達に喜んでもらおうとして創った」原初のおとぎ話「パ
ンダコパンダ」の中にも戻ってゆけるのでしょう。そこでやっと、望んだ観客に会えるのでしょう。
きっとそこまでこの作家は苦しめられてきたのだ、と思います。傷付き尽くしたのだと思います。
「ファン」を名乗る人々と、そしてそこから金を巻き上げようとする企業の圧力によって。
「ラピュタ」が一番だ!「トトロ」を作るべきなんだ!ボクが一番の宮崎アニメファンなんだ!
とかほざいてる若造。鼻で笑ってやるよ。+こちとら「ホルス」から観てんだ。
※あ、あと、そうやって実際に作者の「心」を受け取ってみても、ソレが貴方の望んだ物だった、
とは限りませんよぅ(笑)。
=============================================================================================
☆8/8、付記。
この映画の主題の一つに「判らなくたっていいじゃないか」というのがあると思う。映画の内容が
意味不明だっていいじゃないか、なんて話じゃないですよ。
「折り返し点」の中で、ちょっと印象的な思い出話があって…監督の父親。戦争で喰ってゆく軍需
産業関係者で、メチャクチャな人だったらしいけど…それが宇都宮での空襲で、幼い駿少年含めた
息子達の手を引いて、ただオタオタと逃げ回っていた、とだけ書いてあった箇所があって…。これ、
アタシの脳内に、たちまちイメージが膨らんだ。
幼い駿少年は、そんな父の横顔を下から見上げていたのだろう、きっと。風向きと火の手の位置を
見て、どちらへ逃げれば助かるか、ただ一匹の獣のように耳をすませ、風の臭いを嗅ぎ、血走った
眼を空に走らせていた父。手を引かれた子供は「お父さんも困って、慌てている。かなりヤバそう」
と、父が生命力をギラギラと燃やして、生き延びようとしていた姿を見つめていたのだろう。
その姿は、リサと重ならないか。
リサが嵐の中を暴走するシーンは、あくまで息子・宗介の視点で語られるべきものなのだろう。
同時に、この嵐のシーン…下↓で書いた通り「ベビーカーから覗き見た闇」のような、と自分は
感じたイメージ。その、監督の脳内での出自も、この短い思い出話と結び付く。
幼い駿少年は見たのだろう。父の肩越しに。警報のサイレンの中、夜空をまさぐる探照灯の光芒
と、その中で時折キラキラと輝くジュラルミンの機体、閃く対空炸裂弾のフラッシュ、真っ赤に
照り映える街上空の闇、風に運ばれてくる何かの焦げる臭い。ごうごうと渦巻く風の音の中に、
大勢の人々の、地鳴りのような怒号、悲鳴の合唱。それを、見聞きしたのだろう。
ただ闇雲に、生き延びられる方向へと走る。己の生命力だけを頼りに、勘と本能を全開にして、
まとわり付く死を振り払おうとする生き物。社会通念も、安全保障構想への信頼も、映画評論も
クソもあったものか。「何も判らない」。判らないが故に諦めない。ただギラギラと生命の炎を
燃やして。どこをどう走って助かったものやら判らない。判らなくたっていいじゃないか。
これからの時代の人々に必要な薬があるとするなら、まずコレだろう…という信念のもと、
様々な薬効成分を、子供用の甘いシロップの中に混ぜ込んだ、コワい絵本のような映画。
それが「ポニョ」の、一つの側面なのだろう。絵本は「判る」必要はない。ただ情感と、根源的な
感情、生きる喜び、逢えた嬉しさ、死への恐れなどを口移しで、肌から肌へ伝えればよい。
効用はいくつもあるけど「生命力の励起」はコレ相当に効きます。ゼヒお試しを。効かない人も
いるみたいですが。そこは感受性の無い人には効かない造りなので、仕方ないです。
「折り返し点」、だいたい読了。
「だいたい」と書いたのはこの本、映画を理解する上で殆ど解答が羅列してあるコレ、みたいな
有用な部分と、宮崎駿という人物を理解する上で有効な基礎知識的部分と、白黒ハッキリ分かれて
いて、今回は後者の部分はナナメ読みにしたから。しかしそういった部分も読んで楽しい興味深い
話ばっかりなので、後から読むと収穫がいっぱいありそう。
これから第6回鑑賞に行くつもりだったんだけど…うえ〜。東京、今夏初めての酷暑日かよ…
終わらない。終わらせない。「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月 5日(火)14時21分7秒
返信・引用
編集済
8/4、雨が上がったので銭湯へ行った。帰り道、街の匂いをかいでみた。
街が、この映画を「テキトーなトコロで片付けだしている」匂いがした。こりゃいかん。
何故この作家は、こんなにも頑強に「抵抗」するのだろう。なぜ、あくまで「手造りの」アニメー
ションにこだわるのだろう。それは「愚直」という言葉が最も近いほどに、しかしそんな言葉では
収まりきらないまでにその熱情は熱く、叩きつける怒りは苛烈で、図々しいほどに我侭、時として
手段を選ばない。なぜ、デジタル文明を、こうまで嫌うのだろう。こんなもの単なる道具なのに。
「アニメーションの持つ魔力」を知る者にとっては、それは理解出来る。「魔女宅」公開時に披露
されたこぼれ話で、冒頭の草原のシーン、寝転んでいるキキの傍らで揺れる草花…ある女性原画家
が担当したらしいが、その揺れ方に背筋が総毛だった…という話。今回も作品冒頭、崖の上の家の
周囲で風にそよぐ花々の描き方に、同様のものを感じた。アニメーションの製作工程が判っている
者なら、ハーフ撮りだとして1/12、1秒の12分の1の刹那のフレームに、その花に想いを込め、どこ
から種が運ばれてきてどのように根付いたか、そして体験してきた雨の日風の日、そんな事まで気
を配りながら描いているから、被写体に生命が宿る。そんな動画が積み上げられて、説得力のある
幻想空間の再現性が増す。絵描きの引く線一本には無数の情報が込められている…とは以前に書い
た事だが、そんな線で構成された一枚の動画、それが24枚で1秒、それが連なって100分の映像作品
…そこに凝集された無限の情報量、圧倒される人々の想い…それは判る。しかしそれを一般の観客
に判れ、と言った所で通じるものではない。画面の隅でへろへろ揺れている花など無いのと同じ。
その辺の通行人を捕まえて、中近東テルアビブで放棄された廃屋のタンスの中に置き忘れられた
少女の日記の行間の一言を読み取れ!しかもアラビア語!なんて言った所でどだい無理な話だ。
頑強に抵抗を続ける、その相手は、さもしい企業原理か。
しかし通過儀礼のクリスマスムービーだって、良い作品はある。むしろ、その窮屈な枠組みの中
で精一杯に客の予想を裏切り、自分の作家性を出した上で拍手をもらおうとしている正々堂々と
したショウビジネスマンもいるはずだ。いったい、そこから何を「守ろうと」しているのだろう。
昨今の楽曲作りの、いわゆる「曲先(キョクセン)」のように「結果」という枠組みの中に「原因」も
「過程」も押し込めさせられる、そんな「作家への圧縛」を嫌ったのだろうか。
「温情家」という柔らかい棺桶の中に閉じ込められる事を嫌ったのだろうか。
そう確かに、まるで檻に閉じ込められようとしている手負いの獣だ。さすがに若い頃のような、
一噛みで牛をも倒すような勢いこそ無いが、それでも決して企業に、客になつかずに作家として
最後の時を迎えようとしている。いったいそうまでして何から、何を「守り」たいのか。
一つには、人の手から人の手へ直接渡される"肉肌"を感じる創作物であり続けなければならない、
というのはあるかと思う。システムそのものが悪ではなく、システムで周囲を囲まれると、人は
それに頼り始める。機械に頼っても、機械は何も語り返しては来ない。創作は早晩衰弱死する。
だからアニメーションは、なまめかしくなくてはならない。アニメーションは暴力的でなくては
ならない。絶望や恐ろしさも描かなくてはならない。…みたいな、それは判るんだけど…。
観客の「柔らかい頭」を維持したいんだろうなぁ、きっと。
朗らかで安心出来る夏休みのお楽しみ?本当にそう思うかね? 幸福を享受する家族のために、
映画作家はその望むものを提供しなければならない?本当にそう思うかね? 人類が皆ジブリ
映画を観るようになれば、戦争はなくなるんだ!本当にそう思うかね? フセインも死んだし、
これで米軍もイラクから撤退して大丈夫!本当にそう思うかね? 中国はテロリストに狙われ
ています!さあ果たしてオリンピックは無事に済むんでしょうか!本当にそう思うかね?
しかし、決して「破壊のための破壊」なんて、している訳でもなく。映画としての機能もガッチリ
あって。しかも、それが「物語」の力によって、ではない。明るい「夢」と豊かな「映像」を楽し
むうちに、いつの間にかその語るべき所も呑み下させられてしまっている。アニメーション作家と
しては、してやったり、というところだろう。
「なにを、そんなに泣いているのだ?」
「道端の花が可哀想で…。ろくな栄養も取れない舗装路に咲いて、虫に喰われ、排気ガスで苦しみ、
子供達に踏みにじられて、最後には枯れてしまった。この花の一生は何だったのでしょう」
「自分を花に重ね合わせているのか?自己憐憫か?」
「そうだと思います。しかし私には、進むべき道がありません」
「海を見なさい。その花は、カニの幼生に生まれ変わった。しかし生まれて間も無くイワシに食べ
られてしまった。そのイワシも工場廃液で数が減った。魚は個体数が減ると産卵数を増やそうと
するので、北氷洋ではニシンが増殖した。そのニシンを食べていたアザラシは一時は潤ったが、
海面上昇で姿を消した。アザラシは海亀に生まれ変わったが、超高速定期船に衝突して死んだ。
その花の死に様も、美しいとは思わんかね」
「貴方は、これからどこへ行くのですか?」
「ああーあー死にたくねえーなあー」
「ごもっとも」
「やるだけの事はやりなさい。雨が降ったら、その汚染された雨水で喉を潤しなさい。ドブ泥の
中の虫をほじくり出して食べ、生きながらえなさい。そうして私の還ってゆく場所を作りなさい。
私の還る場所は、君たちの中だ」
「うわぁ〜〜受け取っちゃったよォ〜〜(しまった)」
「あ、あと、ポニョを貫いちまえ」
「はい」
こんな映画。
なんかフと監督の持つムードって、やっぱ野坂昭如氏あたりに近いのかなぁ、と思った。
やはり同じ時代を生き抜いてきた御人なんですねぇ…きっと。
♪この世はもうじきお終いだぁ あの町この町金が鳴る
欲張りババァは長生きで 優しい娘は早死にだぁ
クラリス・ナウシカ・ノー・リターン ノー・リターン ノー・リターン
どなたの歌やら子守唄 極楽極楽ねむの里
クラリス・ナウシカ・ノー・リターン ノー・リターン ノー・リターン♪
かッ… カッコいいぜぇッッッ野坂昭如!!!!
http://jp.youtube.com/watch?v=d4HiKH9dzIo&feature
↑「ポニョ」を観る際の副主題化として推奨します。(本気(笑))
著作権? 文化活動的引用で御座いますよ。 クソー、この曲聞くと元気出てくるぜッッ!
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終わらない。終わらない、「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月 3日(日)05時46分17秒
返信・引用
編集済
ポニョが「眠くなること」の理由が、まだよく判らない。
あ、「ポンポン船縮退→上陸の辺りから、フジモトかマンマーレの魔法トラップが張ってあるんだろう」
とか「魔法を使うと体力が消耗するキャラ設定なんだろう」とか、そーゆーのは重々承知しております
んで。ポニョの気持ち。彼女の気持ちの、検証。
緑のバケツは、二人の間を繋ぐラブレター。宗介が彼女に「守ってあげるからね」という約束をくれた
場所、そして実際に水を満たして生かしておいてくれた場所。嵐の直前に宗介がソレを垣根の上に掲げ
るのは、観たまんま…「僕は愛しているよ、いつでも帰っておいで」というサイン。そんなバケツを、
ポニョが上陸してからも絶対に、片時も手放さず、宗介にテーブルに置くんだよ、と支持されても断る
のは、彼女の内面の不安の現れ…自分はお魚だ、もしかして嫌われるかも知れない、ココに居られなく
なるかも知れない、でも宗介は守ってくれるって言った、このバケツの中で確かに言った、という愛の
証拠、ソレにすがりつく気持ち。その気持ちは、トンネルの中で縮退して手を失うまで持続される。
そこから逆説的に、彼女が魚の時の姿を自分でも醜い、嫌われるんじゃないか、と思っている事、人間
の姿は、そんな彼女の精一杯のおめかしである事も推察出来るが…なんで眠くなるんだ!?
トンネルを通過した展望公園で、宗介が縮退した彼女をバケツに戻してやる場面の意味は…「愛して
いるよ、約束は変わらないよ」という愛の再確認?それじゃ彼女が眠くなるのは、倦怠期の象徴(笑)?
なんつって、ずはは。彼女の中には宗介のような「信念」は無いし、生涯変わらぬ愛を誓っている訳
でもない…愛する者の元へ辿り着こうとする瞬間最大風速は天変地異級だけど、ソレを「手に入れて
しまって」からは…あ、そうか。「宗介、これからこの女には手を焼くぞ」っていう監督からの示唆
か?なんつったって原初のままの「オンナ」の象徴、ですからなぁ。ポニョさんは。
それじゃ、再会抱擁直後に、玄関の非常灯に惑わされる描写は…「田舎から出て来た生のままの娘が、
怪しい文明の光に魅了される」危険、を表してたりして(笑)。
ポニョの気持ちなども絡めて、コレからラストシーン検証の方向に進みたいと思います。自分へ宿題。
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☆ちょっと軽いパート仕事で、少しだけ間が空いた。
ところで、自分はこの映画に『救われた』
。
それは下↓の御かんそを読んでいただければ明白だと思うけど、もう一度ハッキリ明記しておきたい。
人間が一生のうちで、そんな「機能」を持った映画に、何度巡り合える事だろう。
何度も繰り返して言ってはいるが、通過儀礼のクリスマスムービーも悪くない。
寒い冬、家族で身を寄せ合って暖かいホットチョコレートを飲みながら、今家族が無事でいられた事の
幸福を感謝する。そして子らに、映画の主人公と同様に真っ直ぐに生きて行ってもらいたい、と願う。
それはそれで、悪い事ではない。
しかし「全ての児童向き映画は、かくあらねばならない!」と口角泡飛ばして拳を振り上げる親達は、
いったい何がどう不満なんだろう。何がどう不安なんだろう。まるで召使いの教育係が、子供のために
自分の考えで教育を施したところ「余計な事はせんでいい!」と激怒する貴族の親みたいだ。自分は
「子の心を育てること」については、何もしなかったのに。
ましてやそのような商品…客の入りが読めてソロバンが弾き易い商品、客の満足度を数字で図り易く、
プレゼンし易い商品、人心操作し易くてコマーシャリズムに載せ易い商品、自分達にとってナメ易い
商品、作家の手から収穫(商標権)だけ掠め取って行く自分達ドロボーどもにとって見下しやすい商品、
そんな「商品」の型に作品を押し込めようとする企業家どもは世の中を、映画を、一体どうしたいんだ
ろう。さらには、これは底辺中の底辺の事だけど、違法動画サイトで盗み観て、何か暇潰しはないかな、
と作品周辺にたかってくる糞蝿の群れ(笑)。こんな現状では作家が、ああ、これはマトモな方法で観客
の心に「機能」し、なにがしかの「仕事」を成し得るフィルムは撮れない、と絶望しようと無理なかろ
うというもの。
本当は、児童向け読み物というのは「笑いと幸福」を与えるべきもの、とは言えない。それは児童に
本棚に手を伸ばさせる、集客のためのオマケのようなもの。本当は「悲しみ」こそがその与えるべき
栄養源の最たるもの、といえる。
人魚を題材にするのなら、報われない愛に泡となって消える、悲しい、透明なほど美しい想いの物語
を描きたいものだろう。「赤い蝋燭と人魚」のように、救いようもなく残酷で、絶望と哀愁しか後に
残らないような物語だって、時には語ってみたいものだろう。
余談だが、スタジオ赤ばんてんが想いを込めて作った「まんが日本昔ばなし」には、このような恐ろし
い話、悲しい話も優良なものがラインナップされていた。しかし現在では、いつの間にか「単純で判り
易く無害な、童心に戻れる郷土玩具」というキャッチコピーに押し込められてしまって…。一体これを
扱う版権者たちは「昔ばなし」の何を観ていたのだ?観ていないのか。
このような現状で、児童向け映画では「悲しみ」など描けない。物語中盤で描いたとしても、観客は
「でも最後にはシアワセになるんでしょ?主人公の根性が、どんなコンナンもやっつけるもんね!」と
作家の袖口を引っ張るだけだ。
もはや「悲しみ」を描く仕事は、児童向け映画から、ついえた。
「これでいいんだ、この千年王国、自由競争経済社会は永遠に安全。ココに生まれた我々は選ばれし民。
わぁいわぁい」…とはしゃぐ映画観客層たちの背後から、あのインドネシア大津波のような災厄の影が
迫っているのを見て、ある作家が、あぁこれはいかん、私が出来る立場にいる内に何が出来る事をして
おかなければと意を決して、出来る範囲での事を始めた。
児童向け映画では、もはや「悲しみ」も「恐ろしさ」も語れない。もう映画は、そんな原初的な言語を
持ち得ない。「明るく朗らかな娯楽作品」を創るしかない。では「明るく朗らかな娯楽作品」に出来る
事は、何か。
こうして映画は分裂した。かたや人としての欲望も、責任も、道義も、言い訳も持ち合わせない幼児の
原初の心へと語りかける物語として。そしてかたや、そんな心から、最早どうしようもなく遠く離れて
しまった、かつて幼児だった人々へ向けて。生活に疲れ、見えないものの影に怯える、そんな人の心へ
木霊のように呼びかけ、不思議な三匹の熊の留守宅へ招き入れるように招待し、夢を見させ…その夢も
現代人のニーズに沿うべく玩具のような「謎」を与え、脳の運動に必要充分な程度の解釈の迷路を与え、
疲れて戻って来た頃に暖かいハチミツ茶のような甘美な「夢」を与える…そんなやり方で、いつの間にか
幼児と一緒に、三匹の熊のテーブルに付かされてしまっている。そんな機能を「娯楽作品」に与えた。
三匹の熊?そんなものいる訳がない、子供騙しの通過儀礼だ、まァ子供の横で、どんなテグチで騙して
んのかだけ確認してニヤリとさせてもらいましょうかね、はっはっは、そんな気分で劇場に入ってきた
観客は、いつのまにかマボロシの三匹の熊と相対させられてしまっている。
「お茶をどうぞ」「あ、どうも…」
そして三匹の熊は、ちょっとだけコワい話をする。ほんのちょっとだけ、匂わせる程度に。
「昔々、この森では…」
自分は、この機能にヤラレた。もう、どうしようもなくヤラレた。
魂の心臓マッサージを受けた。「生きろ!生きろ!」というメッセージを受け取った。どうしようもなく
優しく、雪が積もるようにたおやかに、しかし流れるマグマのように沸々と、砂漠の熱風にように雄雄しく、
生命のエネルギーに満ち満ちた映画である事を感じ取った。もう抗いようがない。
「もう一杯、お茶はいかが?」
優しく薦めてくれる三匹の熊の眼は、すべてを見守ってきた眼。ネイティブアメリカンの老婆のように、
消費文明に明け暮れる傲慢なヤンキーの青年を見つめ、暖かく許す。表立って諭すなどしない。しかし
もしその青年に「心」があったなら、その眼差しの中に、その後の彼の人生を決定付けるような何かを
見出すだろう。その青年は救われる。
「夢の網」は「心」の網。その青年のような「心」を持ち合わせない非対象物は、ぜんぶガラガラと、
網から抜け落ちてしまった。この辺も作家にとっては、意図通りなんでしょうね。コワい造りですね。
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「ポニョ」の理解に苦しむ人は、頭ン中で映画を『絵本』に翻案してみるのも手なんじゃないか、
と思った。
「私にもちょうだい。ほら、たれちゃう!」
リサがソフトクリームをなめると、道はカーブにさしかかりました 下は崖です
ガードレールがぐんぐん近づいてきます
リサはすんでのところでハンドルを切り、なんなく通りぬけました
リサは車をすこし進めて、ヘッドライトで海面をてらしだしました
くらいドックのみぞには黒牛のむれのような大きな波が、どうどうとうずまいています
「大波がくるぞ!」造船所のおじさんがさけびました
引き波のタイミングを見はからって、リサは車をつっこませました
ホラ、こうして児童文学に翻案しちゃえば、戸惑う事もない。ヒステリックにわめく母親は、
「親子で安心して微笑むための夏休みこども映画だ」という先入観持ち過ぎ。アタマ固過ぎ。
さらには、こうして文章への変換工程を経てみると…この場合は↑文を書いたアタシの解釈
フィルターを通した上での話、という但し書き付きだけど、このシーンの演出意図も読めて
くる気がしたり。一つは物語に没入させるための、単純なスリルでしょうね。
もう一つは…「嵐の夜に、保護される母の腕の中で感じる、幼児の原初的な不安」ですかねえ。
安堵していいのか。でも車の外に見える小山のような黒い波。ベビーカーから覗き見る闇の世界。
このシーンの機能は、そんな感じでねぇスか?あくまでアタシ個人の解釈の上での話ですけど。
クレーマーみたいな母親は自分の不安を見透かされて映画に過剰反応する前に、ちったあテメエ
の脳内で創作活動に近い事でもやってみろっての。娯楽の無い時代の昔の母親は、皆、子供に
寝物語をしてやったもんだぞ。どんなに下手でも無い頭を絞って、うるさくわめき散らすガキが
寝息を立て始めるまでの僅かな時間、そのガキの心に何がしを語って聞かせてやろうとしたもん
だぞ。それを他人任せ、商業ベースの通過儀礼任せにしといて、何をがなりたててんだか。
…でも、この映画全てをそのまま絵本、もしくは児童文学にしちゃうのは例え宮崎監督直筆の
美麗な挿絵入りでも難しいでしょう。誰か優れた文筆作家による大幅なリライトが必要かと。
映画は、その魅力…描かれる世界の魅力、ネタの大部分を映像と音響が占めているので、その
二つとも奪い取ってしまったら、今現在の形での「ポニョ」は成り立たなくなっちゃう。
誰か、著名な児童文学作家が名乗りを上げてくれんもんか…あ、ダメか。よっぽど上手くやら
ないと、今度は「映画と違う!」なんていうクレームが出るか。ダメだこりゃ(笑)。
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まだ「ポニョ」関連。まだ。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 8月 1日(金)07時54分48秒
返信・引用
編集済
5回目鑑賞終了。18:00の回。客はまた少し減った。30人くらい。
今回は、ポニョと宗介に感情移入して観てみました。前半部分は気を楽に、自分勝手に様々な
想像を巡らしながら…「サンゴ塔が"産まれる以前の国"だとしてみたらどうだろう…そこから、
誰かに会いたい一心で肉体…走る脚と、抱き付く腕を手に入れ、陽光きらめく水上へと全速力
で浮上してゆく少女…」なんて考えつつ観ていたので、もォ大津波シーンは滂沱の涙。愛する
人の元へ行ける喜びにその瞳を輝かせ、その心中の地平線の彼方まで一片の曇りも迷いも無く、
満面の笑みで疾走する軽自動車に肉薄する少女。もぉ、唇わなわな震えちゃいましたよ…鑑賞
5回目なのに。このシーンはアニメ史に輝く名場面になりましたね。迫力、純真、畏れ、愛、
生命の喜び、全てが嵐のように逆巻いて。
老人救出に向かおうとするリサが宗介に与える「仕事」にもグッと来ましたね。危急の際には、
子供だって家族を守るために仕事をする。その瞳をじっと見つめ「この子なら絶対に大丈夫」
と自宅待機を命じる母親。本当に子供に対して必要なのは抱き締めて守ってやる事ではない、
真剣に見つめて仕事を与えてやる事だ、と監督は言いたいのでしょう。宗介の初めての試練、
「親のいない孤独の中で待機」。(本人は家を守っていると思っているが、よーするに留守番)
しかしまァ、本当に「はじめてのおつかい」なんですねぇこの映画は。幼児が体験する初めて
の試練「おつかい」に同行する観客は、監督の仕掛けたトラップによって一緒に「夢」の中へ
没入させられてゆきます…。そのトラップが効かない者、効き過ぎる者、もいる様子ですが…。
○監督へ私信。
大変に僭越ですが初めてポニョの弱点(と呼べるものがあるとするなら)を私が考え得る限りで
書きます。この映画に"救われた"自分にとっては『夢のシーン』は大変なシンクロ率だったの
ですが、一般の観客に対しては、ボートの親子のシーンで使われていた「リアリズムの喪失感」
を喚起する演出操作を、その後の展望公園のシーンくらいまで続ける必要があったのでは…と
感じます。ボートのシーンは奇妙なセリフのやり取りと演技が抜群の効果を発揮しておりました
ので、逆にポニョと二人切りになっちゃうとセリフに頼れず絵のパワーのみでしか引っ張れずに
「夢」から覚める観客が出てきてしまったのではないか…と危惧致します。監督は多分、大嫌い
な手でしょうけれど…出崎統監督演出のように過度な装飾主義に走るような手法も一考の余地が
あったのではないかと考えます。水面、魚、木立、全ての物が陽光の反射でキラめいているとか
…今回のようなセル画のような懐かしさ、絵本のような美術、どこかで見たような景色、だけで
「夢」の持続感を維持出来るのは、その多くは私の様な世代に対して、だったかも知れません…。
さて、ではポンポン船出航から意識集中。映画の深層へ潜り込む準備OK。エントリースタート!
ポンポン船は、監督が「誰でも幼少期に持っていたイメージの共通項だろう」と考えたのだろう
「子供の見る夢」の代表的モチーフでんな。一番のお気に入りのオモチャに、一番好きな彼女と
乗り込み、おべんと持って未知の冒険にいざ、出発…。自分なら強力なミサイル連射管も欲しい
ですね。緊急時に10分だけ使える空中浮揚装置も。このシーン、アレだ。アソコと重なる。「ラ
ピュタ」での"竜の巣"。大好きな彼女と身体をシッカリ結び付けて竜巻の中へ…ッて、あたしゃ
アレ初見の時に「性交の暗示か?」とか思ってましただよ。いや「少年の夢」なんでしょうけど。
ところで自分はこの映画に"治療"されたので、
もうこのシーンに「死の恐怖」は感じない
。
ここで、精神がまいっている現代人が感じる「死のイメージ」。コレはいったん観客を「皆んな
がシアワセになる母の懐のように暖かい幻想」から揺り起こし、テーマに誘導するための「前提」
だ。実際の海にダイブした時の感覚に、よく似ている。自分はスキンダイビングが好きで潜水具
なしで8m潜るけど、降雨後などは表層海水温が心臓麻痺を起こしそうなほど冷たい。そんな時
でもそんな表層潮流を通り過ぎると海底には、暖かい「生」そのものの真の海水温が待ち受ける。
そしてその暖かい癒しの潮流は遥か彼方の海の底まで、絶やされること無く延々と連なっている
のが実感される。今にして思えば、それが海母神グランマンマーレの「本当の思い」なのだろう。
少し話が飛ぶけど地球そのものは実は生命に対して住みやすい環境でも何でもない。宇宙の環境
は生命に対して過酷であり苛烈だ。それを、この惑星の薄っぺらなベールのような大気層の中を
生命の揺り篭にしているのは、他でもないクジラから細菌まで、生命体の集合総意識「ガイア」
に他ならない…と唱える人がいる。その意識は、時として気まぐれで残酷。しかし全ての生命に
子を産み、増えよと諭し、守り育てる母のような生物相の全体意識は、確かに、厳然と存在する。
話がそれた。とにかく、こうして母が子に対し「世の中には恐ろしい事も沢山ある。でも…」と
噛んでふくめるような暖かさに揺られつつ、観客は幼い頃に見た夢のような世界に沈降してゆく。
この「夢」と、皆がシアワセになる通過儀礼のような「夢」。この双方は、それぞれ多分監督が
幼い頃に見てきたのだろう母の姿と現代の、子供を徹底的に危険から切り離そうとする神経症的
母の姿とに対比出来る。
子供を育てるには、もっと「危険」を与えて
「活力」を野放しにさせなければ駄目なんだ、
という示唆を与えているのでしょう、監督は。
やがて、すれ違う人々の幻影。子が出来たばかりで、大洪水に対する不安も落胆も無く、未来に
対する希望でいっぱいの夫婦。その夫婦と赤ん坊に与えられる「生命の代弁者」であるポニョの
無条件の祝福。このシーン自分は今回フと「ホルス」で、ヒルダが召還した鼠群に蹂躙されても、
それでもなお愛のしとねに向かおうとする新婚カップルの想いの強さを思い出したりしました…。
そして通りすがる避難民満載の船団。災厄に見舞われて財産を失っても、なに、気落ちしてなる
ものか、と大漁旗を掲げ、陽気に行進する人々の、底抜けのバイタリティー。誰もが助け合い、
生き延びられた事を祝福し合う。子供達は、そんな"明るく頑張る"大人達の背中を見る。自分も
何かしなきゃ、したい、と願う。そして、行動にうつす子供もいる。避難場所の確認と別行動する
自分の目的、最低限のやり取りを終え、ポンポン船の機関をフルスロットルに船団を離脱する少年。
そんな、彼もまた成すべき「仕事」を背負った少年の背中に、人々は敬意を示し手を振って見送る。
危険と困難を前に、明るく団結する人々の姿。人間はこんな美しい様相も持っているんだ、と夢の
中で示す映画。
現代人の中には、やっぱり「危険」と「死」が隣接した場所でないと人は美しく生きられないの
かな…監督はそう言っているのかな…と落胆する人もいるでしょう。しかしそうではない、見方
を変えろ、「危険」もまたこの世界の意志なのだ、呑み下せ、と監督は言いたいのかも知れません。
…なんかまたスゴく判り易く説明しちゃってるなぁ。どーしたんだ自分。
それはそーと宗介には、この後次々と「試練」が襲い掛かります。5歳児に相応しい試練、そして
5歳児にとっては巨大な試練。まず魔法の力を失うという「翼の喪失」、地面に自分の脚をつけて
歩いてゆく事となり…さらに母は行方不明、今までその暖かい手を握っていたはずのパートナーも
縮退を始める…という「喪失」の連続を味わい、やがて展望公園のシーンでは「選択」を迫られます。
しかし、ちょっとココで休憩…もうちょっと、ゆっくり噛み締めてみたいので…
「ポニョ」って、実際にスクリーンを前に受け取っている鑑賞時よりも、家に帰って反芻している
時こそがまさに「真の鑑賞タイム」なのだと思う。
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いんたーみっしょん。
少し体調が悪かったので、軽くうとうとした。目覚めて、軽く半覚醒状態の脳内で記憶の再生
ボタンを押すと…映画の、ほぼ全てのシーンが脳内メモリに欠損無く備蓄されている事を確認。
流石に作画のデティールまではアヤフヤだけど、100分の映画を完全に脳内再現可能。これなら
検証に問題無い。しめしめ。上々だ。中断していた検証作業の続きを始めましょう。
予断だけど、目覚めた半覚醒状態の最中で、ジブリの夢を見た。夢うつつの状態で見た夢だから、
なかば恣意的に脳が考えていた事かも知れないけど…監督がジブリに造ったという、保育所の夢。
4歳くらいの幼女が昼食を偏食して食べないのを見て、職員2人がオバケの着ぐるみを着て「偏食
だ〜偏食だ〜」「偏食はイケナイ事だ〜」と脅かしていた。ソレでも頑として受け付けない幼女に
対してオバケ2人が「そうか、君の決意が固いのは判った。その意志は尊重する」…とかやってた。
自分はソレを見て「芝居がかった事やってんなァ」と笑っていた。そんな夢。
…出来ればジブリの夢じゃなくって、ポニョに抱き付かれる夢が見たいんですが…(笑)
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さて、ではつづき。いよいよこの映画の(一見外見上は)安穏とした、不思議なクライマックス。
「はじめてのおつかい」に挑んだ5歳児が繰り広げる大冒険、のパートの御かんそに移ります。
正直言ってココは、あたし本人にもまだ腑に落ちない点が数々あります。でもソレを承知の上で
私見を述べさせていただくとしたら…。
リサカー発見〜トンネルのシーンまでは「度重なる喪失」という『試練』だ、とくくって良いと
思うんですけど…問題は展望公園での『選択』のシーン。この選択、誰が観ても間違ってます、と
いうように監督は描いてる訳で…フジモトは取り敢えず惑星の重力場崩壊を回避するのに必死だし、
転じて、宗介を保護しようとするトキ婆さんの腕の中に彼が抱かれていっちゃうのは、コレはコレ
までの文脈上誤った選択だろう、というのは誰にでも判る。それでも宗介は夢中になって走る。
間違った方向へ必死になって。コレの意味。
監督は「選択が正しかったか間違っていたかなど問題ではない」と言いたいのではないか。自分の
私見ですけど。この競争社会上でサラリーマンは、常に重大な岐路に立たされる。時に選択を誤り、
同僚が自分を追い越して出世して行くのを横目にガックリと肩を落としてヤケ酒をあおり、選択を
間違った自分を呪う。それは、アタシ個人の考えでは、常に偏差値で出来不出来を占う学校教育の
悪習も遠因にあると思うんだけど…「自分の点数が出ちゃう」と人はソレにうなだれて従ってしまう。
…ココで監督が示したいのは、それでも彼は走った、取り敢えず走った、という事ではなかろうか。
トキ婆さんの胸中に飛び込むのは、事態を悪化させるばかりだが…逆の場合。もし彼が素直に…もう
疲れてしまって大人にすがりたかったか、選択を運命に預けたかったか何だかでフジモトの言い分に
従って他人任せの態度で「誓約の儀式」に臨んでいたら、彼の内に自覚と決意は芽生えず、ポニョは
泡になって消え果たのではないか。
ココで正しいのは「右に行けば良かったのか、それとも左か」なんて問題ではない、彼は走った、
そのお陰で彼の心の中に正しい解答が維持された…作者は、それを示したかったのではないか。
そしてこの結論は、この映画の持つ構造…「表層的な描写とは違った次元に観客を行き着かせる」
という機能とも合致し、また、作内で描かれて来た描写のデティールとも通じる。
海亀の仔は、ポニョに喰われるかも知れない。ポニョは、水道水でショック死するかも知れない。
リサカーは、崖から墜ちるかも知れない。ソレでも生き物は押し合いへし合い、頭をぶつけ、痛い
思いをし、時には死スレスレのピンチをかいくぐりながら生きてゆく。
「正解は右、左、どっち?ほうらね、ボクは右だと思っていたんだ。先生がそう言ったもん!」
そんな事言ってるヤツはじきに津波に沈むよ。監督はそう言いたいのかも知れない。
"答え"は右でも左でもない、オマエの心の中に芽生える決意と信念だ、そしてソレを助ける本能と
勘と生命力だ、といいたいのかも知れない。 そんな『童話』。
さて、ではいよいよ映画のラストシーン「誓約」の場面の御かんそに入りたいんですけど…。
正直に書きます。5回観ても、まだ腑に落ちない点がある…自分には、婆さん達のキャラをどう
扱っていいものやら、まだ完全には合点がゆかない。済いません、コレについては6回目の鑑賞
を経てから、ゆっくりと進めたいと思います。あと、5日の「プロフェッショナル」を観てから。
番宣によると、監督が「老い」という物に対して、何事か語られる御様子ですし。
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☆8/2、付記。一晩寝て。
「ポニョ」って映画は「魂のサルベージ」だなあ、って思った。漁船によるサルベージ。
獲物は、様々な現代人。子供を護る事に神経症的になっちゃってる奥様方。自分みたいなのは、
その海の底に貼り付いている根魚。カレイみたいなの。それらを映画冒頭に出てきたトロール船
みたいのが根こそぎかっ攫ってゆく。と、あら不思議。根こそぎと思われたのが、降ろしている
トロール網が「夢の網」なのでソレに反応する生体だけが網の中に残り、以外の、映画で掻き集
められてた大量の投棄物の類はスルスルと網から、何の抵抗も無く落ちていってしまう。残った
のはエビ、イカ、魚、生きている海産物のみ。それらは一網打尽に船の上へと収穫されていく。
船の上で、海産物を収容している者。その正体は何者か?
しめしめ大漁だ、とほくそ笑んでいる漁民か?
それとも今なんとかしてやるからな、と救助しているレスキュー隊員か?
答えは簡単。漁獲だけが目的なら何も「夢の網」などというケッタイな道具を使う必要はない。
これほどの腕を持つ漁師さんなら、実物の網を使えば大量に、冒頭シーンそっくりにバスタブ
やらペットボトルやら捨てタイヤやら何やらいくらでも掻き集められようというもの。
…あ、ただ、この比喩には無理なトコもあって。
漁船の上に引き上げられて「わぁい。釣られた。助けて!」と呼んでみても、レスキュー隊員氏
は、そんなコチラをしげしげと観察しながら「そうか。釣られたか。それでお前さんは、自分で
自分をどう助けるんだ?」と問いかけてくるだけなんですけどね(笑)。
それでも「夢の網」を降ろすまでの途方も無い苦しい作業、魂を削るようなギリギリの制作姿勢
を想像すると…それはレスキュー隊員と同じように崇高な仕事なことだけは絶対に間違いない。
と感慨を深くすることもしきり。
*
作者が意図したこの映画の機能が「受け手に外界を認識させ、その枠を広げること」だったと
すれば…「車の運転、そして暴走」をモチーフに選んだのにも合点がゆく、と気付きました。
自分は、運動が苦手のガチガチの文系。そんな自分が運転免許を取って、初めて公道に出た時、
「皆んなこんな危ない事をしてんのか!」としばし呆然となり、恐くて恐くてせっかく手に入
れた車に乗るのも億劫になった時期がある。対向車の挙動がおかしくて恐い!後の車そんなに
車間詰めやがって、もし前に子供が飛び出したらケツ掘られる!…だの何だのが気になっちゃっ
て。もし峠族あがりの友人の漫画家が色々教えてくれなかったら、きっとペーパードライバー
のままでいたと思う。彼は言った。「アンタは一度、安全な場所で暴走やらスピンやらやって
みた方がいいと思うよ。」自分にはその言葉が信じられなかった。交通法規は絶対遵守、もし
皆んなが勝手を始めたら、事故の連鎖は絶対に防げない、と思っていたから。「そうじゃない。
車とは何か、どうやった時に制御不能になるのか、その原理と世界の物理法則。何故今、安全
に走れているのか。それが不可能になるのは、どういった場合か。身体で覚えた方がいい」と
言ってくれた。今では、その言葉に感謝している。車重、タイヤグリップ、このカーブなら
どのくらいで横滑りしだすか、判っていなければ「真に安全な運転」だって出来るはずも無い。
運転が楽しくなってきたのも、そういった「危険」をすべて認知してから、でした。
=============================================================================================
日テレの「NEWS ZEROスピンオフ「ポニョ」を創った5人の天才」を観た。あ、コチラは真面目に夏休
み子供SP「アニメが出来るまで」になっててイイんじゃないでしょうか。と思ったら企画から奥田
誠二氏が絡んだりしてんのね。やっぱ番組ってのはキチンと作品として作らなきゃダメですなぁ。
保存。
それはともかく、こーゆー番組を観ると、あぁ映画の裏ばかり気にしてちゃいかん、ちゃんとアニメ
としての表現のアレコレも正面から語ってゆかなきゃなあ、と改めて思わされます。ああ、いつまで
たっても語り尽きん。アタシがまず、この映画のアニメ表現について語れ!と言われたら…
とにかく「ポニョ」は、もォ何をおいても、まず大津波シーンでしょう。どんなアニメ素人さんでも
「あの場面は凄かった!」とは口を揃えて言われるでしょうけど、では何が凄いんでしょう。
迫力?力感?ダイナミズム?…宮崎監督は今回の映画を撮る際に「パースからの開放」「海を一個の
登場人物として描く」みたいな事を言われたそうですが…。
画面の中に町景などの「世界」を構築するためには、まずパース感覚が絶対に必要。出来の悪い作品
などで見られる、建物がへにゃへにゃ地面から浮いてたり、遠くの人物がその空間に納まってなくて
妙に大きかったり小さかったりする、そんなんはアウト。カチッとした平面と、そこに人物や立体が
構築されている物理空間を設計出来なくては説得力ある舞台の街すらも作れません。「そんなん3D
CGで設計しちゃえばイイじゃん」なんてのは甘い夢。実際の街景は坂はくねくね、建物はうねうね
のたうっていて一筋縄でいくものではありません。ソコに挑戦したのが、いま日テレ主催展示会でも
絶賛公開中の宮崎駿のレイアウト。「ハイジ」の山の牧場の折り重なって拡がる緑の稜線。ざわめく
波頭のように生物的に、アルムの山の息吹を伝えてくれたものです。んで「三千里」のジェノバの街、
「魔女宅」のコリコの街。普通、あーゆー小山をびっしり、ナメコみたいに建物が覆い尽くした景観
はドコに地面があるんだかアヤフヤになっちゃいそうなモンですが、この方のレイアウトにはガッチリ
固い台地、そしてソコに詰まれたレンガの重みまで感じられたものです。ああ、このヒトは建物群の
基部に隠された岩盤の形状と重みまで認識されてるんだ、と感心してきました。
そして、今回の「ポニョ」の海。その何が凄いかってココでは、上↑に挙げた「ハイジ」の山の稜線、
キキが散歩したコリコの街の石畳、そんな宮崎世界が展開するドラマのステージとなるべき舞台平面が
動くんです
。
ソレまで抜群の臨場感を誇っていたスタジオジブリの背景世界。観客がソコにスンナリ没入出来たのは
リアリズムを追求して厳密に設計された空間だったから。しかしポニョが駆けて来る、波立った海面。
今回はその磐石な堅牢さを誇っていたはずのプラットフォームが、動く…。この大津波シーンを観て
「酔った」という感想がたまに目に入りますが、さもありなん。
こんなシロモノはCGでは100年、200年たったって出来る訳ありません。CGをあくまで「筆として」
使う場合は話が別ですが…とにかくジブリの絵は「印象派」絵画である事は↓いくつか下の7月25日の
投稿でアタシも書きましたが…想像してみて下さい、その印象派絵画が動くんです。
モネの睡蓮、ゴッホの自画像なんかが動き出すところを想像すると…。
うわ〜ッ!気が狂いそう!!
今回の、この大津波シーンは美術界にとっても収穫だったろう、と信じます。
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どれみ18歳
投稿者:
てつ
投稿日:2008年 7月30日(水)12時37分51秒
返信・引用
今日はどれみちゃん18歳の誕生日です!
おめでとう!!!
これからもよろしく!!!!!
当分続きます、「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月30日(水)00時26分45秒
返信・引用
編集済
4回目鑑賞終了。
同じ品川のオフィス-ホテル街のシネコンだけど、ソコに限って言えば
観客が増えた
。そして、
反応がイイ。客層は8割がたカップルとOL、残りが家族連れ。上映終了と共に、今回は劇場
が笑い声で満ち溢れた。朗らかな笑い声ではない。皮肉な嘲笑でもない。楽しみながらも、
「わわわ、判んね〜!」「判った?」「判んないよ!」「でも面白かった、手応えも感じた」
…という笑い。OLの一群は声高に明るい声で「ポニョは…」「5歳じゃ…」「結婚は…」と
話し合いながら女子トイレに消えていった。語り合う気マンマン、と見た(^o^)。
客層が変わった?噂を聞きつけた「謎解き」層が来つつある?
コレこそ宮崎監督が今回狙ったモノだろう。家族連れは5組くらいいたが、その多くは「もっと
観たい〜♪」という子供を連れ、ポニョポニョ♪歌いながら去っていった。
残る一組の家族(母1人、娘2人)だけが顔に縦線を降ろしたまま、いつまでも椅子から立ち上
がれないでいた。ご愁傷様(^血^;)。…思うんだけど、この映画で過敏に反応しちゃう子供って、
よっぽどセンスが鋭敏(それはめでたい事♪)か、もしくは…その母子連れを観て感じたんだけど、
子供が親のただならぬ顔色をうかがっちゃうんじゃないかなあ。親が作品に「死の影」とか感じ
取って震え上がってたら、ソレまで楽しんでいたかも知れない子供だって「なんかコワい…」と
鋭敏に察知してしまうだろう。監督はきっと、そんな家族の母に「ほらほら、そんな神経症じゃ
いざポニョが大津波を率いて来た時には子供を守れないぞ。胸を張って笑いなさい、このくらい
の不条理は」…と言いたいのではないか。
自分は今回、「自分がコレのコンテを切る立場だったら」という鑑賞法をしてみました。
この方法はマンガのネームを一切紙に描き出さないで最低30Pは脳内で細部まで完全にイメージ
出来るような初歩訓練をした方にしかお勧めしませんが…コレをやれば、作家の製作意図がスル
スル脳内に流れ込んできます。でも、
物凄い疲れた
。
衰えた。凄く衰えた、自分。映画前半までしか集中力もたんかった。ポニョが眠くなってゆく
辺りでコッチまでスーッと眠く…ああああココからが重要だってのによう。くそ。オレの負け。
次回は前半は楽しいマンガ映画を心ゆくまで享受して、後半に精神を集中する事にしよう。
え? 当然じゃないですか、まだまだまだまだ観ますよ。
何度観ても楽しい!!!
今回自分は上記↑の鑑賞法が持続した範囲では、リサに感動した。
母というものの、不可思議な大きさ。ポニョが宗介との抱擁を果たした直後、突然立った巨大
な水柱。この時点ではリサには、いもうと達の姿は見えていないだろうに、同時に降って来る
光の粉。コレだけで「コレは何か起こったんだ!」と察知する彼女。水柱の動きに「意志」でも
感じ取ったか?…そして、子供達を率いて屋内に避難し、周囲の危険に気を配りながらも、取り
敢えず暖かい飲み物で子らをいたわる母。この行動…名作「どれみ♪」無印最終回。「娘達が
何か超常的なものに関わっている」と薄々感じ取ったかに見える
はるか
さんと同じではないか。
いざポニョが、その比類なき生命力でもって押し寄せてきたら、常識だって社会通念だって無為。
そんな時に、やはり回帰的に頼られるのは、母親という存在の持つ勘と本能と生命力しかない。
この映画を通して、まずそれを語りたいのだろう作家は。
これから、自分たちの生命さえ危うくなるかもしれない。(予断だがソレを観客に実感させるため
の印象演出…「生命の危機のイメージ」は冒頭から執拗に反復されている) しかしまずは幼い子
らをホッとする飲み物で暖め、手に入る限りのインフラを整備し、周囲の気配に耳をそばだてつつ
も、そんな環境下でもハム入りラーメンで子らを喜ばせる。子らも喜ぶ。素直に喜ぶ。お母さんは
傍にいるし、ラーメンにハムは入っているし、他に何が要るものか。
男どもが築き上げてきたタテ組織、マネーゲーム、安全保障構想などポニョの前には児戯に等しく。
男は無力。蚊帳の外。この映画は「結局女、母に頼るしかない」という結論に行き着く。
しかし女性側原理(アタシ自身はこの言葉ピンと来ないんだけど…)、生物相そのものの力は破壊的。
無邪気な大破壊、一途な大災害、純情可憐なホロコースト。(何を言っているんだ自分は)
それら全てを、大手を広げて抱き締めよう。全ては大いなる地球の自然の営みのうちなんだから。
…ていうのがテーマの一つ、なんて事になりますかね?いや監督、あたしゃインドネシア大津波
みたいなんは大手を拡げて抱き留められないス〜〜。
そして映画は、そんな生命の営みそのものを、5歳の子供(=人間?)が抱き締め、真実の愛を
誓約するトコまで行くんだけど…ソレについては取り敢えず、5回目鑑賞の時にでも。あ、コレ、
何度も繰り返し言ってる事だけど「印象」もしくは「そう取れない事も無い」範疇の話、ッス
からね。芸術鑑賞に「正解」なんてある訳無い。取り敢えず今は「折り返し点」読了したいッス。
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ちょっと、ここで中間インターミッション。
まったくの余談。「ポニョ」本編とは全然関係ない話だけど…。「ポニョ」を観て、ソレに対する
ネットの反応等を流し見していると…なんか、自分の鏡像を見るように、お国柄とか、その文化的
事情とかもほの見えて来ちゃったりするトコがまた凄いですわね。自分はこんな視点、今まで持ち
合わせてこなかったので新鮮な発見だわ。あくまで単なる映画鑑賞後の副次的効果ですが…まさか
「ポニョ」でこんなトコロまで連れて行かれるとは思わなんだ(笑)。
それは、アジアのとっ散らかった町並みを見渡した時の雑感に近い物があるかも知れない。
・嫌なところ 即物的だなあ。精神的自立してない俗物ばかりが前に出るなあ。強欲で小猾いなあ。
・好きなところ 暖かくて、懐かしいなあ。猥雑な醗酵臭、生命のニオイに満ち満ちているなあ。
自分はタイ料理とか珊瑚礁の海とか雑然とした市場なんか大好きな方なので、いつかアジア巡りの
旅をしたいと思っていたんだけど…病持ちになって、暑さにはヤラレそうだし、第一あのパワーに
弾かれちゃう…アジアもう行けないかな…と思ってたトコでした。けど、また行きたくなってきた。
そーいや、実際にポニョが現れるとしたら、やっぱりアジアしかないでしょうね…。
…あたしゃ文化人類学とか民俗学とか全く齧ってないので、よー判らんのですが欧米人は、きっと
自然と和合したいなんて思わないでしょう。ポニョはあくまで、その存在を認めるにしても、対極
に立てて見つめるものでしょう。まさに「今日の」「アジア人が」創った映画かも、と思うです。
さあ、イタリア人がコレをどうとらえるんでしょうか。狙え、金の獅子賞!
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☆ちょっとココで 少しばっか丁寧に解説しときます。上↑の「流し見たネットの反応」に
絡めて…
リサの行動原理ッてのは、直感と愛情。それだけ。勘に頼って動く。まさに、動物の母親。
なんか、オレほどの筋金入りのロリ者が、彼女にだけはホレちまいそう。素直に欲望も感情も
顕わにして、夫に抱かれたくて溜まらなくて、人としてやるべき事には躊躇いが無い…なんつー
萌えキャラ奥さんだ。その頭ン中がスッカラに見えるのも無理はない。宗介と同じ"象徴"だもん、
この人。まぁ、その意図するトコロは、彼女の行動と共に描かれる「生命の危険」描写と対を
成してるんでしょーねー。「こんなオンナでなきゃ、いさという時生き残れねーよ」という…。
それに対してポニョは、原初の、生命のエネルギーそのもの。その一筋の愛、天変地異級。
意欲?願い?そんな生易しいものじゃない。好きな男に抱かれたい、という生命の欲求がどれ
ほどのものか味わいやがれ、どっパ〜ん。傷を癒し、赤子を癒し、初めての体験に瞳輝かせ、
食べ、眠る。そんな彼女に抱き付かれ、腕と脚とで締め付けられるのは、火傷しそうな生命の
スープを直接流し込まれているのと一緒。原初の快楽。
ロジック的には監督はリサを、もっと「破天荒な女」として描きたかったんじゃないでしょうか
ね。作品の枠組み「児童向け絵本」の範疇では、あれが精一杯の暴れようだったんでしょうか?
それが彼女への感情移入を妨げている?いや、「考えさせる」のが狙いの本作では、意図通り?
ともあれ、ネット上では「子供がいるのに、あんな運転をするなんて!」という感想をよく目に
する様子。狙いどーりなんでしょーね。きっと。
ロジック的に解説しちゃうと、彼女が運転に絶対の自信とテクを持っていることは語られていま
すが…大嵐の船揚場で、エンジンの回転をレッドにブッ込んで(ココS.E.がよく聞き取れんけど)
車体傾斜で海面をヘッドランプで照らし、引き波(大波が来る直前に必ず大きく波が引く)を狙って
瞬間クラッチ操作で突っ込んでいる事は、観察力のある御方なら判りますわね。でも芸術作品に
ロジックでの意味付けなんか、刺身のツマにもならないことは明白。アタシも何でこんな懇切丁寧
に解説しちゃってんのか、自分でも苦笑しちゃうトコあるんですが…それもこれも、コレ↓を書き
たかったがため。「子供がいるのに!あんな危ない事をして!」とガナる主婦層は「私は社会に守
られ、教わった通りの交通教則に従っているから、ニュースで見たような生命の危機には合わない
もん!」と叫びたいのだ。さすが母親、直感的に感じ取っている。「いざ生命の危険が起こったら、
何をどうしていいのか全然判らない。そんな現実を一時でも忘れたくて通過儀礼の皆が幸せになる
ファンタジーを観に来たのに映画でまで不安を流し込まれるなんて!」といって激怒しているのだ。
ニコ動のぬこ動画のうP主ブログに「こんな育て方するなんて、アンタは猫ちゃんを飼う資格ない
ザマス!」と絡む荒らし奥様と一緒だ。皆んな「絶対安全な夢の王国」の外側に潜む生命の危機を
認知したくないのだ。だから暴れ、ヒステリックに叫ぶのだ。
「ポニョ」はコワいねえ。観客の心の中まで覗ける鏡だ。ソレはまァ、自分もその手の内ですけど。
全部コクハクしちゃってるもんなァ、感じた御かんそ(苦笑)。でも「ポニョ」にはソレだけする価値
がある。まァそんな自分も、憤怒の形相の奥様連中まで含めて「何をそんなに恐れているのだ?」と
あくまで優しく諭す作品。答えは、ポニョとリサという"象徴"の中にある。
ああ、懇切丁寧に解説しちまった。自分でも薄気味悪り〜。でも書いといた方がイイかな、と思って。
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あ〜。しょーも無い事だけど今トツゼンにひらめいたんで書く〜。新発見とかじゃありま
せんので。「ポニョ」を受け入れられない観客層の、あのカタクナさ。これ、どっかで見た
事ある。どこだっけ…と考えてたんだけど…
榎本俊二だ
。
「ゴールデンラッキー」が現れた時のマンガファン達の激怒ッぷり
。あれにそっくりだ。
アタシも「ゴッキー」は、一体ドコが面白いのか、最初の内は判らなかったモンですが…。
でもすぐに「ナルホド」と思って、さァそれからは面白くて仕方が無い。最新刊が出たので
買いに行ったら、当時の新宿まんがの森のレジにいた、いかにもマンガマニアのオタクの子
(マンガエリートッちゅ〜んですか?(笑))が「殺してやる!」くらいの凄み方で睨んできた、
アレを思い出した。当時仲間内で「ゴッキー」絡みでからかわれていたんでしょうなァ、
そいつ(笑)。
「ボクはマンガエリートなんだ、何万冊も読んだんだ!僕に理解出来ないマンガなど、何か
重要な物が欠けてるんだ!あってはならないんだ!」…「自分の物」だとばかり思っていた
マンガを、他の大勢に奪われていくような感覚でも味わってたのかも知れませんね、きっと。
そして、自分では「ジブリ」というレーベルが判った気になっていた、奥様がたも。
「ゴールデンラッキー」がスンナリ判る人は、「ポニョ」の観客に向いてるかもよ。
(ほ、ホントか!?>(^血^;))
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出かける前にフとTVを観たら8/5放映のNHK「プロフェッショナル」の番宣をやっていた。
88分の超大作。観るぞー。
番宣を観終えて、出かける準備をしていたら…急に、ある言葉が脳裏に浮かんできた。
手塚治虫が亡くなる直前の、自分が知った範囲での、最後の言葉。
『漫画の構想を練ってるんだ…便所の
天井にフレスコ画を描く男の話なんだ…』
…なんかまた、泣けてきちゃうよ…
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★これから、5回目の鑑賞に行ってきます。
まだ、まだ、まだ続くよ〜〜「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月26日(土)21時44分44秒
返信・引用
編集済
まだ「ポニョ」のドコがスゲー映画なのかって、ピンと来ない方へ…。
「舞台劇」を観劇するつもりで見るのもイイかと思うですよ。舞台劇なら、観客がアニメに対して
無意識に抱いている偏見"ナメ"も"甘え"も希薄。ソレどころか、どんな喜劇劇団でも「どっかしら
"表現者"なんだろーなー」という気構え、生きた演者を目の前にした尊重、とかもあるし。
もし舞台劇で、開演と同時に出て来た母子が「お母さん」ではなく、互いを実名で呼び合ってたら
「ん?何かあるな?」と思うでしょ?ワケ判らない場面が演じられたら、観覧料の元を取るために、
必死こいて脳ミソ回すでしょ? …しかし。この例えに乗るとしたなら…とてつもなく問題なのは…
やってる劇場と演劇が、芸術座で上演されてる意欲溢れる若手劇団の新劇じゃなくって、
青山こども劇場で上演されてる
縫いぐるみミュージカル
だッて事なのだ。
こッ、この爺さんはッ…!!!(笑)
>監督
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「ポニョ」の演出テーマは何か、と問われるなら…『見方を変えてみてみろ。「常識」に頼り過ぎ
るな』…の一言に尽きる、のかも知れんなあ。
学校は、本来バラバラの子供達に共通言語…一つの論議のテーブルに付ける様に、最大公約数的な
共通意識の土台を据え付ける。それはイイんだけど…遊び、ケンカしてても備わるモンだし…けど、
ディズニーのような「世界の共通言語」を目指しているアニメは、ソレ自体に罪はないんだけど、
学校教育…「先生にこう教わりました」「先生の言う事さえ聞いていれば良い子です」…という大量
洗脳効果と相まって、通過儀礼的な単純なテーマを「これが"正義"なんだね!これさえ信じていれば
僕もシアワセになれるんだね!」なんて「信仰」として観客に植え付ける。そんな副作用を生じさせ
るかも知れない。企業は、そんな「信仰者」のパワーを一つに集めて収益を上げるために余計な要素
…一部の客からは反感を呼ぶかも知れない制作者の作家性…「不安要素」を、全部こそげ落とそうと
する。TVのニュースは大衆の力を集めて己のパワーにしようとして「あの国をやっつけろ!」だの
「政府は無能!」だの「大衆の集合的無意識」を煽り、まとめ、突き上げさせようとする。その結果、
まさしく
ポニョのような
「抗い難い無自覚なエネルギーの塊」を客として扱わざるを得なくなる。
お客様は神様。コレは「自覚的な集団による決裁」などではない、ポニョのような「無邪気な怪物」
を玉座に就かせる様なモノだ。そんな国の将来に待ち受けるものは何でしょう。
ポニョって「大衆の無意識」自体とも取れるのか…んでもって、その例えだと、宗介は「作家」
…ということは、最後には、その2人がキスして終わる物語… なんか、また泣けてきた…。
ポニョ、可愛い!ポニョ、愛してる!…なんという「愛」だ。しかしポニョが「ウゼえわよ宗介!
またあたしを抱き締めて、気持ち良くさせてよ!」…と、再び嵐を呼ぶなら、もう逆らえない。
「宗介、偉そうに指図しないでよ!あんたにはあたしを愛する"義務"があるんでしょ!」
「そう、僕は君以外はいない。君が必要なんだ。でももう、嵐は呼ばないでくれ」
「あんたには義務があっても、あたしにはないもん!あんたがそんななら、あたしは別の男の所
へ行くだけだもん!」
「子供に安心して与えられる絵本かと思ったら、変なネタ仕込みやがって!おまけに、ちっとも
判らねえ!薄気味悪りーしコソコソしてみっともねえんだよお前のやり方は!信じてたのに!」
「何を"信じて"いたのですか?それに、子供にも与えるべき物を含ませた、と信じております」
「その、客を見下した、偉そうな態度!客の望む物を創ってこそプロだろう!こっちゃ客だぞ!
"安心"と"癒し"を売りにしていたんじゃねえのかよ!」
「そのニーズも満たしているつもりです。"見下された"と感じたのは、貴方が、貴方に対して、
です。でもそれも全部ひっくるめて大好きだよ、ポニョ」
ポニョの、女としてのプライドが勝つか。それとも彼女の中に眠る宗介への愛がソレを上回るか。
まさにラブストーリーだ。同時に、映画のラストでも描かれていた「愛の試練」そのものでもある。
宗介は今、ポニョに拒絶されて泡になって消えるのかどうかの瀬戸際です(笑)。
勝負かけましたね、監督。 ああ、今年の夏は、凄い夏になったもんだ…………………。
宗介はコナン。ポニョはラナ、インダストリア、ハイハーバーなど「残された人々」の集合体。
ああ、ああ、どんどんどんどん色んな比喩が浮かんできちゃって、止められねえよう〜〜〜。
同時に、本掲示板で書いた「グエムル」感想で書いた「アニメは世界の共通言語」、「ARIA」で
書いた「観客の背丈に合わせてこそ世に残る傑作が生まれる」という言葉も取り下げます。それ
は「必要条件」ではなく「今後取り組むべき課題」として認識することに致します。
「ポニョ」で変わりました。たくさん、変わりました。自分は。
=============================================================================================
ちょっと「ポニョ」とは離れますけど、関係なくはないオハナシ。
○(★)「マイハム組」・野菜で元気モリモリ〜♪
今週の「マイハム組」がモノスゴイ偶然ッちゅ〜か何ちゅ〜か、脚本のやろうとしてる事の構造が
なんとまあ「ポニョ」と同じッちゅ〜か、「ポニョ」が大真面目に取り掛かっていた仕事と同義の
モノを、力な〜く、ナゲヤリに、ナメまくった態度でやってたカンジでオモシロかった。「ポニョ」
の作品構造、死に物狂いで成し遂げた観客への処方。その手順を、鼻クソほじるような態度で追った
「戯画」。一種「ポニョ」を理解する上でのテキストまがいのモノ、として観られるかも。キャスト
の皆さんも、この狂った内容に「ハハハ…」と力なく笑うしかなく。ゲストの金田朋子もヒトをコケに
しまくった演技でグー♪ざんした。脚本、影山由美氏。
ああ…。その昔、東映動画で素晴らしい仕事を成し終えた挙句に「漫画原作モノ」の潮流を頑として
拒み「こんなトコで仕事出来るか!」…と出て行った宮崎、高畑、大塚一派。私には、やはり同じく
出て行った佐藤、五十嵐、細田を始め、「どれみ♪」を産み出した関PD関連のメンツが、その後この
国のアニメ界を根底からひっくり返し、支えた若き日の天才たちの姿とかぶって見えてなりません。
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☆7/28追記。
ちょっと、軽いパート仕事で間が空いた。「出発点」読了。「折り返し点」にかかる。目が悪いので、
どーしても読むのに時間はかかる〜。以前ならこの本、読むのに1日も必要なかったと思うけど。
ここからは、ちょっと特殊な書き方の御かんそも入れてきます。赤い文字の御かんそは、アタシが
個人的にブツブツ言ってるだけの物と思って、読み飛ばしてくだしゃい。
○監督への私信
『映像の力だけで、観客の鑑賞時間を5歳児まで退行させる事は出来るか』
出来ません。しかし『情緒的テーマ』は、ガンガン心に響きます。
所詮、どんなに素晴らしい仕事があっても、そのテーマが『言葉にしてしまえるもの』であった
場合は観客は動きません。しかしコレが『情緒的テーマ』だった場合は、観客の感情を直接揺さ
ぶります。脳裏の奥の方に微かに残っている5歳児が泣いているのが聞こえます。
ええい、正直に書いちゃえ。
「死にたくない、死にたくないよう」と泣いています。
…と書いている最中。つい、今しがた。モニターに当たった肘が、偶然電源スイッチを押して、
見つめていたモニターが真っ暗になった。暗黒。「冗談じゃねぇぞ」と思った。
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畜生、主題歌聞いてたら、また泣けてきやがった…!!!
監督、この映画を撮って下さって、本当に有難う御座います
。
本当に、本当に、有難う御座います
。
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☆7/29追記。
宮崎監督って、その画風と作家性のせいで「児童向け作家」って事にムリヤリさせられちま
ってるけど…実際に子供も好きで、だからその看板を背負い続ける苦労も厭わないで続けて
こられたんでしょうけど…本当は「アニメーション表現が好き」なんであって「児童向け」
がやりたいんでも何でもないんじゃないかなぁ。
手塚治虫だってそうだ。世間では勝手に色んなイメージをおっ被せてるけど…「漫画の神様」
はイイ。事実だ。しかしいわゆる良識派がロクに読みもしないであの人に背負わせた余計な
荷物…「子供の夢の担い手」だの「日本マンガの良心」だの、そんなレッテル貼りはイイ加減
にしろっての。「子供の夢」があるのは事実だけど、そんなのはあの人の巨大な才能のうちの
ごく一部分だ。余計な足枷を振り払うのに、また当時興っていた劇画派に対抗するために、成年
マンガでどんなシロモノを描いていたのか知ってて言ってんのかよ?ポルノは勿論、「時計仕
掛けのりんご」では子供達を機関銃でブッ殺しまくってたぞ。「奇子」も「鳥人大系」も読ん
でないんだろうな、好き勝手な物言いする奴らは。それどころか真正面からの少年向きでさえ
「どろろ」とか「ノーマン」とか…果ては「ザ・クレーター」とかまで行っちゃうし…ガキの
頃にあんなん読まされたのがどんだけショッキングだったか、またソレがそんだけ人生の幅を
拡げてくれたのか、知ってんのかよ。ソレに比べりゃ宮崎監督のやった「正々堂々たる破壊」
が、どれだけ丁寧で、紳士的な態度な事か。
本当は危機に対する覚悟も、思慮深さも充分な大人達、そしてそんな大人に囲まれた子供達が
観客席を埋め尽くしてたら、監督も「パンダコパンダ」を撮れてただろうな。まぁ「パンコパ」
を撮るべき需要と、それに合致したその時の動機があるなら、という話だけど。
ピクサーの映画はイイ。お定まりの通過儀礼だって、その枠の中でも精一杯子供を楽しませる
物を創ろう、という姿勢と頑張りは、見ていてとてもすがすがしい。それはまさしく自分が
「どれみ♪」に惚れ、イレアゲていたのと同種の美学だ。自分も大好きだ、そんな心のこもった
クリスマスプレゼントみたいな映画は。
しかし、そんな「正しき通過儀礼」と、今回の「大衆文化の裾野を拡げようとした反則行為」。
いったい、どっちが真摯で、価値のある行いなんだろう。そもそも比べるべきものか?
欧米はいい。大衆がどんなスカタンでも、その歴史と、アカデミーに代表される「知識と知恵を
集積しようとするシステム」が有効に稼動している、と窺える。そのおかげで、どんなにハリウ
ッドが退廃と刹那的享楽の泥沼に溺れようとも、その中央にはまだ「知恵の枢軸」が感じ取れる。
それがあるおかげで、ハリウッドもまだまだアホな夢を生産し続けられる。
この国はどうだろう。国民の総意識の、ごく僅か片隅で、一握りの賢者だけがブツブツ「諦観」を
披露しているだけで正直な話、全ての事象を批判的に検証する知恵の集積、もしくは国民の総意識
的眼力は、まだまだ発展途上なんじゃないだろうか。
そんな現状を少しでも「前へ進めよう」と、児童向け映画に少しばかり、スパイス程度に「知恵の
種」を仕込ませたからって、それの何が悪い。少女もイイ、俺も嫌いじゃない、でもたまには軽い
芸術はいかが?…と勧められたからといって何故怒る。しかも表向き、いや実質内面も、朗らかな
幼年向けのニーズを満たした上でだ。
「でも、体裁が整ってないじゃん!児童文学は物語も、詩的情緒も満たすべきものだろう!」
その言葉こそ粗探しだ。貴方は「判らない自分」を、認めたくないだけだ。
例えるなら…児童向け絵画の大家に、知り合いの保育園の保母さんが「ウチの園の玄関に飾る絵を
贈って下さい」と依頼した。出来上がった絵は、保母さんが望んでいた物とは違う抽象画だった。
保母さんはガッカリした。「子供達が絵を指差して、あッ、あそこにアンパンマンがいるよ!とか
ウサギさん、かわい〜とか喜んでくれるのを期待したのに…」と、弱り顔。しかし保育園の園長は
「君の気持ちももっともだが、ま、いいじゃないか」とニコニコしている。子供達にも「変な絵〜
変な絵〜♪」「何に見える?」「僕ちょっとコワい…」など、それなりウケてる様子。
しかし20年後、自分の子供らを入園させるために再び保育園を訪れた若い親は、腰を抜かす。
「俺は子供の頃、こんな豊かな物の傍にいて、毎日それを見て育っていたのか…」
とかね。
「でも、判らない者だって多いはずだろう!誰にも判るように描かない作家が悪い!ここは保育
園なのに!」
…ほらほら、そろそろモンスターペアレンツじみた言動になってきてませんか?貴方。
これから4回目の鑑賞に行ってきます。
最終回の夢。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月26日(土)09時10分14秒
返信・引用
「どれみ♪」の絵をページトップから降ろした事が効いていたのか、今朝「どれみ♪」の夢を見た。
最終回の夢。「カーニバル!!」に乗って、クラスメイト含めたキャラ全員が一人づつ出てきて、
ファッションショーみたいにポーズを決めつつ去ってゆくのを、カツ丼食いながら観ている夢。
そういや、もう随分カツ丼食ってないなあ。夢の中で雨が降っていた。
まだ続くぞ!!「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月25日(金)16時42分32秒
返信・引用
編集済
日テレの特番「宮崎監督独占インタビュー130分」を観た。「独占インタビュー」と銘打ち、
監督を130分も取材と称して拘束し、CM前の煽り文句で「そして新作「ポニョ」には宮崎
監督のすごーいコダワリが!」と煽って引っ張っておいて、いざそのシーンは「ナニやら
ムズカシいお話…」と全カットするという、
さぁすが日テレな番組
。
まぁ、ちっとはソレらしいコトバも出て来ましたし、もともと期待はしていませんでしたし。
「映画ってのは全部アヤカシの技ですから…どうやってアヤカサレるかが楽しみなんですよ」
とか、収穫になる二言、三言があったから、付き合った価値はあり。あとレイアウトという
物が何なのか知らない人達に初歩の初歩を伝える意味はあったかも。TVに期待出来るのは
こんなモンでしょ。あ、訂正。
日テレに
期待出来るのはこんなモンでしょ。NHKの方の特番、
「プロフェッショナル」続編は楽しみにしてます。
「どうやったら「正しいか」じゃなくて、(アニメに)描いてある世界は「レンズで見た世界」
じゃないんです」「(最近の若い者は)写真を見ながら背景を描いている」…あぁ、判ります。
漫画界の方でも、背景を描くのに写真をトレスするのは禁じ手、みたいなタブー感がありまし
たが…それじゃ「創作」「表現」になりませんわな。写真家の撮った風景写真をトレスすれば
ソレなり見応えのあるモノになるだろうけど、それは写真家が「仕事している」からで、その
仕事をパクッているだけ、になっちゃう。まぁ、ヒジョーに低いレベルで、パースもへったくれ
もあったモンじゃない素人仕事を、最低限省力化工程で見られる画面にする、みたいな意味合い
はある場合もありますかね。ジブリの仕事はアニメ界の印象派なワケだ。芸術レベルの。
わーい、四万温泉積善館だ。宿泊レポートは本掲示板の4P前を読んでね!(笑)
途中、「ポニョ」絶賛公開中!のCMが流れても「日テレ必死だなwww」と、別に何とも思わな
かったんですが…油断してた所にフイ打ちで海辺で藤岡藤巻&のぞみちゃんらがポニョポニョ♪
歌う三ツ矢サイダーCMが飛び込んできた時には、瞬間、胸が
ズキン!!!
と痛んだ。
もォダメだな、オレ。ゾッコンだな(笑)。
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ちょっと、アニメ業界の若いヒトに向けてお願いしときたいです。
この映画を観て「やった!!コレで日本のアニメ界にも
ヌーベルヴァーグが来るんだね!!ボクもこんな手法で
映画を撮ったら皆んな斬新だ!!って褒めてくれる?」
…とか思いなさんなよ
。
これは「パンダコパンダ」も「コナン」も「カリオストロ」も「ナウシカ」も、全てやり終えて
来たヒトだからこそ辿り着いた境地です。まぁ、その根底にはあの時代に「ホルス」をやった、
という過去がある訳ですが… とにかく、迂闊に真似すると大火傷だよ。
「ソレでも俺は"映画"を撮りたいんだ!この理想と心中してもいいんだ!!」…という御方なら、
お止めしませんが…。とにかく若い内は、客の正面から創る事を忘れちゃヤバいッす…。
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「出発点」を読んでる。
う〜ん、この巻では、今までメージュのインタビューなんかを断片的に拾うだけで、漠然と
つかんでいた宮崎監督の脳内イメージから、はみ出す情報は得にくいかなぁ。読み進もう。
この欄は自分への覚え書き程度に、得られたモノをメモしてくのに使う〜。
・ムーミンの絵(原作の方の事だと思う)すら自分には不気味に感じる、と書いてる。
ポニョの変身途中の半魚人の姿、アレってトトロなんかにも近いと思うんだけど、やっぱ監督は
明確に「オバケ」として描いてんでしょうな。子供を泣かせない範疇での、愉快な"オバケ"。
そーいや余談。愛猫(生前の頃)の顔を見つめて「どーして猫ッてのはこんなにかーいいんだろ♪」
と、頭の中で徐々にモーフィングさせて人間に近づけていった事がある。とたんに止めた。二度
とやらない。人間は人間、動物は動物、が一番(冷や汗)。
・「ハイジ」の頃から、この二律背反はあったんだなあ、やっぱ。魂が引きちぎれるような思いを
して、本当にいい物を作った。途端に大反響。観客は「もっと、もっと観せて!次も私達を
キモチヨクさせて!」とせがむ。ソレは仕方がない、観客には騒ぎ、せがむ、しか作品を
品評する術がないのだから。観客に罪はない。…が、企業はこう命令する。「いい作物が取れそう
だから、百姓どもの年貢を5割増しにしろ。その方が良く働く。寝る間も与えるな」…こうして
"地獄"は際限なく続く。「三千里」が"いつ果てるとも知れない苦闘を続ける"物語になったのも
当然だわ。同時に何故、監督が「フランダース」を気に入らないのかの理由も、判った気がする。
「死ぬこと」を最終予定調和として、そんな観客をオイオイ泣かせるための物語…ナルホド。
・ヒントその1、みっけ。189P黒澤明「生きる」への賛辞「ワンショットの力」。
・司馬遼太郎の「人間は度し難い」という言葉に堀田善衛が「そうだ。度し難い」と応えた姿に
感銘を受けた、と92年に書いてる。「ポジティヴな諦観」感覚はこの時に始まったのかな?
・対談では「トトロ」完成直後の、糸井重里とのがヒントだらけ。「彼は少年の心を持っている…
なんてね。子供に向かってかがんでるやつは好きじゃない。ロマンとか夢だとか、もうそこら
へんは止めて欲しい」「子供は字を覚えると下らなくなる。二歳半から五歳までなんだな」
「あんまり子供とベタベタしちゃいけないんですよ。"不思議で不気味なクソジジイ"は」
村上龍とは「ヒューマニズムは陰謀だ」。この一言。
・富沢洋子さん聞き手の「コナン」の項は、ナミダ無しには読めませんでした。
・「トトロ」に関しては「今回は本当に演出の手管を使わないで済んだ作品です。でも基本的には
本当にあったことなのか、それとも夢なのか、分からないようにはしてあるんです。でも僕は
勿論本当にあったことだと思って作っています」
・巨神兵は、デザイン的には真新しいものではない。しかし相貌に「無垢さ」を付け加えると、
途端に「手に負えないもの」になった、という。巨神兵=ポニョ?(笑) そんなポニョを愛せますか?
・「アニメーションは永遠の未熟練労働です」
…コワい言葉だなぁ。以前にはこんな風な言葉…「アニメーションは"慣れ"で出来ない。"ここ
までやれば良い""これでいい"という事がない」なんてのを聞いても漠然としか判らなかったけど、
今は身にしみる。職人見習いの若手が親方にド突き回され、どやされて「畜生、畜生、何で殴られ
るんだ、畜生。今に見ていろ、畜生!きっと必ず見返してやる、畜生!」だなんて歯を食いしばって
耐える、アレが一生、死ぬまで続くという事か…。
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☆どーでもいい瑣末な暗喩解きなので、ココに書く〜。
ポニョの魔法が消えかけてポンポン船が縮退し、元の玩具に戻るシーン。アソコで宗介の被っていた
船員帽と双眼鏡も同時に玩具のように小さくなっちゃう描写、暗喩的\みたいだけど…あ〜。こうして
キーボードに指走らせてる最中に、確信したわ。
船員帽は親父(船長)の様に立派な男になるという「気概」、双眼鏡は世の中に目を走らせる「探求心」
の象徴だわ。…でもこの暗喩は、単体では「ポニョ」を読み解く直接の手がかりにとしては薄いです
かもね。
まだまだまだまだ「ポニョ」。鑑賞3回目。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月25日(金)00時24分22秒
返信・引用
編集済
3回目鑑賞終了。今回はレイトショーで観たので\1200。20:30のオフィス-ホテル街にしては、思った
より入っていた。40人くらい?9割がカップル。終了後の反応は、主婦層ほど悪くない。カップルは
言葉少なにヒソヒソ話。OLのグループは、クスクス小さな声で談笑しながら帰って行った。悲惨な
顔してた、単身のオジサンは…ライターさんかな?「どう書きゃイイんだ、こんなモン!」と悩みま
くってたカンジ。大変そうだなぁ。『
芸術作品だ!!観る者によって全く感想が違ってくるだろう!!
』
…とか書きゃイイのに。御自分が過去に見た芸術体験なんかと絡めて。見た事ないかしら、芸術?
初見時のオレもそうだったけど「聞いた話だと今回は幼児向けだそうだから…」とナメて劇場の椅子
に座ったヒトは大変だなぁ。しかも、それで「幼児向けだった」という感想で済ませられる一般人は
イイけど、迂闊な事が書けない上、何かしら読者に「ナルホド!」と思わせなきゃならない出版関係
は悲惨の一言だ。お疲れ様です。
とにかく「ポニョ」は劇場で見なければならない
。
コレは美術館の絵画と一緒だ。DVDはモチロン買うけど、家庭のモニタで煎餅ポリポリ齧りながら
観たら
何も得られない
。酒飲んでパンツ脱いで観るなんざもっての他。絶対にソッチ方面でも、
決して満足は得られなくなる。劇場まで足を運んで「前回観た時のアレは何だったんだろう」と思い
を巡らしながら開演のベルを待ち、美しい映像、可愛らしい魅力をたっぷりと享受しつつ心の底から
癒されてこそ、その度に新たな発見がある。何か、頭の中で
「あッ!!」
とフラッシュする物がある。
"萌え"が席巻した現代にブチ上げられた芸術エンターティメントなのだ
。
コレはスゴい。こんな物が、今になって現れるとは。まさか、まさか。
アニメ業界は完全に行き詰って、沈滞に向かっていると思っていたのに。萌えバブルが弾けたら何も
残らないかも知れない、と思っていたのに。
美術館に掲げられた一幅の絵画。窓から差し込むのが朝陽、夕陽かによって、その色合いを変える。
描かれている美しい少女の表情も、鑑賞者のその時の心理を反映して丸ッ切り印象が変わってくる。
描いた者が精魂を込めたので一筋縄ではいかない。観る方も真剣な格闘、真摯な態度が求められる。
それが芸術。…しかし、この場合はちょっと事情が違う。可愛らしいキャラが飛んだり跳ねたり、
そのあどけない愛らしさをたっぷりと発揮してくれる幼児向け娯楽映画。大人の観客への医療効果
は『癒し』そのもの。しかし観る者によって楽しい玩具にもなり、人生を変える感動の一篇にもなる。
なんて映画だ
。
ところで、今回の鑑賞では、自分は「ポニョ」に恋をしながら観た。
コレがハイジだった場合は、彼女が牧場を山羊と一緒にパンツ丸出しで駆け回れば、それは一種の
「鎮静効果」を呼ぶ。苛立っていた精神が落ち着きを取り戻し、世の中の騒音、悲鳴、怒号、その
他もろもろの不協和音が遠退いてゆき「真に大切なもの」、人間が生きてゆく上で欠かせない及び
必要充分なものが見えてくる。…しかし彼女の場合、まれに、処方する相手によっては脈拍低下の
副作用を生じる場合があるかも知れない。鎮静効果が効き過ぎるのだ。
ポニョは違う。愛する者のために一時も迷わずに、恐れも疑いも概念に持ち合わせず、弾ける笑顔
で怒涛の大津波の上をギャグ寸前の猛烈なエネルギーで疾走して来る、その姿。そのパワー。輝き。
ポニョは魂の心臓マッサージだ
。
その走りを観ていると、彼女の小さなお手手、あんよでパンチ、キックを浴びている様なイメージ
が脳裏に広がる。5歳児の力だから痛くはないが(彼女の怪力設定はココでは考えない)、殴られた
部位から身体中に、光の波のようなヒーリング波動が拡がってゆくのが感じられる。実際に感じる。
確かに感じられた。アンタも感じ取れ。
同時に、劇中の冒頭から、繰り返し挿入される「危険」の描写…この場合「死」ではない…ヒヤッ
とする瞬間、拳を握り締める場面、膝が浮きそうになるピンチの数々が、同様に心臓マッサージに
似た効果を魂に及ぼすのも確認した。リサがガードレールに接触しそうになるシーン、船揚場で
大波を突っ切るシーン、突風に飛ばされかけるシーン、肉食魚がウヨウヨ徘徊する水中に幼児が
身を浸すシーン…
適度な危険は、身体と精神を活性化させる。耳をそばだて、周囲に気を配り、細胞も引き締まる。
瞳にも、光が再び蘇る。
この映画細部まで実に細かく編み込んである
。
そうして、ポニョの魂のマッサージに身をゆだねながら、夢心地で鑑賞を続けると…今回は何の
不安もなく、何の気負いもなく、最後まで、この夢の中を散歩するような、いたいけな「童話」を
心穏やかに楽しむ事が出来た。今回の鑑賞では「死の影」も恐怖も、全く感じる事は無かった。
…自分は"治療"されたのか!!?
ところで、自分はキャラグッズやら縫いぐるみやら、その手合いのブツは買わない。その代わり。
開演時間待ちの間に、劇場ビル併設の書店で宮崎駿談話集「出発点」「折り返し点」を買った。
2冊で5千何百円だかしたけど、値段なんかどーでもイイ。今はこの2冊が、素晴らしいファン
グッズだ。次回、4回目の鑑賞は、この本を読んでから挑んでやる。絶対の自信がある事だけど、
次回もまた全く別の映画に見えるぞ
。
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コレは既に、初見鑑賞の夜に反芻しながら気が付いていた事なんだけど、書いといた方が面白いなぁ、
と改めて今回思ったんで、今更ですが書きます。ポンポン船で出航してから、親子のボートに出会う
シーン。アソコに漂う「死の臭い」は、総合的な演出かと。まず「絵」なのはモチロンですが、ついで
音響も。そして重要なのが、編集。DVD出たら検証してみたいですが、カットの尺が、ソレまでの
リズムと違って、気が付かないほど長めに取ってある?のではないかと思いまして。判り易く言うと
ホラー映画で、日常シーンでは何気なくサクサク進行していたカットの流れが「何か起こるぞ」って
場面になると、もったりし出すよね?さらには観客は、こんな意味不明なシーンを急にあてがわれて、
「だからこのシーンは何なの!説明をくれよ!早く!」…と創り手からのフォローを待っている状態
なのに、ゆったりした編集でヤキモキさせられた挙句に、「当然あるもの」と思っていた説明もされ
ないままシーンは終わっちゃう。こうして観客の中のモヤモヤ、不安感は溜まってゆく。そんな感じ。
…「ポニョ」って、演出技法の百科事典みたいな物、とも捕らえられるのかも知れませんね。
素人目で判る範囲で、こんな技術の検証なんかも面白そうですね〜。
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夕べの3回目鑑賞から、一夜明けて。
あ〜ッ「ポニョ」が観てえ!!
「ポニョ」が観てえよお!!!
…いかんいかん、「依存」しちゃいかん。…まずは「出発点」「折り返し点」を読んでからにしよう。
まだまだまだまだ続く「ポニョ」関連。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月24日(木)11時20分3秒
返信・引用
編集済
『ポニョは「女神」ではない』…という所がハッキリ書けているのがサスガだなぁ、と思いました。
「女神」でもなければ「破壊神」でもない。フツーこーゆー物語を観せられると「ポニョ、助けて!
会社に行きたくないよ、リストラされそうなんだよ!」とか、彼女のパンツにすがりつきたくなっち
まったりするモンだけど、ポニョの行動原理は、観客にもキッチリ伝わってる。そんな風にされた
彼女がどんな反応をするかも、観客それぞれが克明に想像出来る。短い時間で、さらにその多くは
単なる魚の姿だったというのに…。とんでもねえ伝達力。
グランマンマーレにしたって、観音様のように「拝めば助けてくれる」神みたいな存在ではない。
通過しただけで貨物船の機関に影響を与えたりするが、ソレは、ガメラが近付いて来るとラジオに
電波障害が起きる、みたいなモン。そんな「偶像崇拝」を排しつつ、同時に宗教色をも一掃出来て
いるものサスガ!ポニョにしたって、大津波を巻き起こすほどのエネルギーを持っているのだから
軽い奇跡やワケ判らん魔法を使ったりする事は出来るが、ソレは「ユカイな奇異」程度のもの。
指の傷をなめて治したり、赤ん坊を癒したり、発電機を直したりする事。それらはみな「人間の
母親がすること」だ。いや「生き物の母親全てがすること」だろう。母親に関してだけは、宗教
にも近い憧れと尊敬がある事が判る。同時に畏れ。生物が持つ津波のようなパワーには抗えない、
と言いたい事も伝わってくる…。
あ〜ッ、今、自分の「解釈」を読み返していて、トートツに判った気がする!!
トキ婆さんとフジモトの誘いから宗介が柵の上を走るシーン、アソコで婆さんの顔にポニョが
叩き付けられるの、アレ、もし宗介がそのまま婆さんの胸に飛び込んで、婆さんもソレまでの
ツンからデレの本性を現して「この子は渡さないよ!」でシーンが終わったら「良かったネ、
チャンチャン♪」になっちゃうからじゃないか、あのシーン!(あくまでアタシの解釈ですよ)
宗介も「お婆ちゃん、恐かったよう!」で、母性の中へ戻って行っちゃう。フジモトが天を
仰いで絶叫。
「あ〜ッ、それじゃ話が進まねえよう〜ッ!!」
(笑) んで宗介ににじり寄りつつ
制作意図の解説を始める。『いいか坊や、このシーンでおじさんが演じている寓意は「死」だ。
「死」から逃げるだけじゃ意味がない。いったん自分の中に「死」を受け入れ…』だの何だの
言っちゃって、このシーン台無し(大爆笑)。
そのうちフジモト、トキ婆さんをビシッ!と指差して「この女はお定まりの通過儀礼に映画
を堕落させるハリウッドイズムの回し者だ〜!」だの言ったり何だり、いや、ソレはちょっと
言い過ぎでした(^血^;)。アタシ自身は今でも下↓に書いた「宗教的な常識=そのキャパを
越えたら思考停止しかねない」という事ではないか、と思っとります。はい。
アタシは、特にピクサーのような「丁寧に、心を込めて練られた通過儀礼」作品はとても価値
のある、いやムシロ子供の頃にはそーゆーのの方を積極的に与えた方がイイんじゃないか、と
思っております。そして、子供が本当に、まだかなまだかなと待っているのも、ソッチの方の
映画なのではないかと。宮崎監督の過去の仕事なら「パンダコパンダ」あたり。
…でも「ポニョ」に疑問を感じてココを覗いておられる御方、コレを読んで『ほらみろ、ほら
みろ!やっぱり「ポニョ」は間違っていたんだよ!「トトロ」を作るべきだったんだよ!』と
叫びだすなら、ソレも間違いだよ、アンタ。
ホントはソレで済んだら凄くイイ事なんだけど、現代日本のこの状態では、ソレは作れない。
映画がソレばっかりになっちまったら、ちょっとでもそのフォーマットから外れた物を作った
ら、例えソレがどんな優れた価値、きらめくような可能性を秘めていたとしても、アンタ今回
と同じに『ボクに理解出来ないから「駄作」!』と指差すだろう?そして下↓の初見感想の時
のアタシと同じように「暖かい、優しい児童向け」の中に戻って行っちまうだけだろう?
アンタやオレみたいな観客層、モンスターペアレンツみたいな母親、もし大地震が襲って来たら
家族を捨てて逃げ出すような父親、そんなだから、創るのは「ポニョ」に成らざるを得なかった
んだよ。ホントは監督だって、出来るなら「パンダコパンダ」を撮りたいんだよ。気付けよ。
同時に、ちょっとヒネた見方。この御方「空飛ぶゆうれい船」で「ボアジュースを飲むと死んで
しまうよ!」(※注:ボアジュースの瓶はコ○コーラそっくり)ッて叫ばせたアレから、ずっと
戦い続けておられるんだなぁ…。
ずっと、ずっと、ずっと、あの時のままで、戦い続けてこられたんだなぁ…。 うッ…(嗚咽)。
ああ、「芸術作品に対して決め付けみたいな印象を述べ立てるのは単なる妨害電波」って表明
したばっかりなのになあ。またやっちまってるなぁ。…まぁ、仕方がないでしょ、ココは。
もうこんなになっちまったんだから。このまま行きます。
この後、3回目の鑑賞に行ってきます。
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まだまだ続く、「崖の上のポニョ」に関連して。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月23日(水)17時57分49秒
返信・引用
…なんかイキオイに任せて夢中で書いてたら、「そんな下品にがっつくな!もっとゆっくり味わえ!
内容にしたって、見当違いもいい所だ、馬鹿者!」…と監督に怒鳴られそうな気がしてきた(笑)。
下↓では噴出して来る物を止められずに、ぶわーっと書いちゃったけど、しかしそもそも「ポニョ」
に対してこんな事やったってちっとも意味なんて無いですわな。コレは自分が自分で整理するために
好きでやった事。「ポニョ」の凄いところは「遅効性」な部分と、「絵画的」な部分。
映画を見た後、仕事をしていても街を歩いていても、どっかしら気にかかっていて、ある時フと
「あれ、もしかして…」と思い当たる。しかしその思い出は、愛らしいポニョの仕草、幼い頃に
夢見た情景そのものの美しさ、微笑ましいエピソードを笑って楽しんだ「美味しさ」と共に蘇る
から、まるで心を許した親友の優しい一言のように、心から振り払えない。そんな映画。
テーマを「言葉」で説明すると、カッチョいい。ソレは制作した映画人にしたって、ソレを観た
観客にしたって。作る方としては御託を並べて、ソレを観客の胸に叩き付ければ、カッチョいい
自分にスッキリするだろう。ソレを観た観客も「あの映画って、ああなんだぜ」と言葉にし易い。
カッチョいいテーマを互いに伝え合えば、自分もカッチョ良くなったように感じられる。しかし
そんな物は、その制作者→観客にいたる輪の、一連の作業が終了すればソレで終わり。キレイに
忘れ去られてしまう。「言葉」自体が価値を持った物なら話は別だが、そんな歴史に残る金言、
そうそう出てくるモンじゃない。そんな映画は単なる通過儀礼だ、と監督は言いたいのかも知れ
ない?今回の仕事を通じて。
「ポニョ」の、さらにスゴい所は「言葉」以外の形で心に染み込む事。何年か経った後、街で
だらしなく飲み歩いている時に、フと、あの船に乗った避難民達の姿が浮かんで来てしまう。
その言葉が、心にこだまする。「おーい、おーい、頑張れよー、頑張れよー」…。
それが、本来の機能。だからココで今、こんな事をダラダラ書いちゃってるのは、まさにソレを
阻害する、『「やってはいけない」妨害電波』であるのと同時に、本来「言葉で説明してはいけ
ないもの」を、上↑で書いた、作品の威を借りて関係無い自分がカッチョ良いふりをする退廃的
オタクマニア行為に他ならない。読んじゃったヒトは御免なさい。でも書く。書かずにはいられ
なかったんだもの。この芸術作品を観て「こんな絵じゃなくて萌え絵描けよ。ソレで抜かせろよ。
バーカバーカ」という類いの書き込みを、ネット社会では見かけるモンで。この映画に戸惑ったり、
嫌だ、不安になる、キライだ、という御方は、自分の初見感想と同じ段階にいるのだと思うけど、
それよりずっと低次元に、言えば言うほど己をさらけ出す事になるのに「バーカバーカ」言ってる
雑音は、聞くに堪えない…大人気ない?まんまと監督の掌中に陥った事を告白してるのに、知るか
そんなん。まぁ、アタシも小さなリスク背負って書いとりますんで。監督がたった一言「この映画
に"死の影"?神経症じゃないかソレは?」とのたもうただけで盛大に爆散しますんであたしゃ(笑)。
そうなった際には指差して、お腹の皮がよじれるまで嘲笑してやっておくんなさい。
でも、一言。たった一言、これだけは、絶対に事実だと確信している事。
監督、この映画を撮る際に、物凄い苦痛を味わったと思うよ。
だから、この映画に関しては、軽々しく「お疲れ様でした〜」なんて軽い言葉は一切発せられなく
なりました。
まだまだ、味わいます。この一夏かけて、ゆっくりとかみ締めます。この、世にも美味しい"薬"を。
あ〜なんか「ポニョ」にまつわって、イロイロな他の事にも思い及ぶ。
「マクロスF」。春先に、アタシあの面白かったコレの7話を観て、素直に「面白かった」と
言やイイのに「ゲテモノという前置き付きでですが…」なんて、またよせばイイのにヒネクレた
モノの書き方しちゃって、その後、少し悩んでたんですわ。『自分も楽しんで、面白がったのは
事実だし…第一、コレを否定しちゃったら「STAR WARS」みたいな作品はどうなるんだ?』と…。
今回、アタシ個人に限ってはコレでいいのかも知んない、と思い直しました。
宮崎駿と自分、人間としての出来は巨像と、そこにたかる毛ジラミくらいもあるけれど、こうして
自分も宮崎翁みたいな頑固で偏屈な爺さんの方向へ行くんだろうなぁ…と、ちょっと納得した気分。
さらば「STAR WARS」。好きだったけど。
ハッキリ言います。河森監督、「マクロスF」7話とても面白かったです。でもゲテモノ。(爆笑)
「ストライクウィッチーズ」は観る必要ないでしょお。例え佐伯監督、林監督が参加されてても。
2回目鑑賞は3連休明け平日の上、品川というオフィス−ホテル街を選んで大正解。一番混みそう
な午後の回だったのに客入りは母子連ればかり20組程度でした。ベッドタウンのシネコンなんかは
きっとスゴい事ンなってんじゃないかと思うけど…なので、ガキどもの反応もゆっくり観察する事
が出来ました。とにかく、台風の夜シーンの幼児ポニョの一挙手一投足が面白かったらしく、椅子
の上で飛び跳ねるだけでキャッキャ、ハチミツ茶をなめるだけでゲラゲラ。「不思議なともだちが
家にやってきた」というシチュエーションだけでハイになっちゃってる様子でした。転じて、母親
の反応も、この劇場では明快でした。EDが終わるまで最後に何か、何かもう一つあるんじゃない
か、と待ち続けていたのだろう母親達、画面暗転と同時に全員、合唱するように
『ヴ〜〜…』
と
うなって、ポーニョポニョポニョ♪歌ってる子供の手を引いてゾロゾロ出て行った。面白かった。
今回の映画の興行収益を占う上では、この母親達の反応がキーポイントだと思います。なんやかや
言ってもジブリ映画のインカムの原動力は、子連れの母親達。…この映画は多分、特にヨーロッパ
圏で「芸術映画だ」とゆー事で高い評価が下される事になるでしょうから、モハヤ気にしませんが、
監督は、観客対象としてのこの「母親達」のレベルを、かなり高い位置に置いていたんでしょうか?
それとも子供等と同じような、素直なレベルに想定していたのでしょうか?それとも、ソレがどんな
客であろうとも「伝えてやらなくちゃ!」という使命感に燃えられてたのでしょうか?…アタシは、
現代の主婦層は観客として信用に足らないのではないか、と思っています。モンスターペアレンツ
みたいな層さえいる事だし。…いやだからこそ、この映画を撮り、そして広く観せて回らなくては
ならなかったんですかねえ…。いずれにせよ日テレが躍起になって「満員御礼!」だかのTVCM
打って盛り上げようとしてるのを見ると、いや、ユカイユカイ。指差して笑いたくなっちゃう(笑)。
子供たちの反応は…。今回の劇場でもポニョのキャラは気に入った様子で、まだ虚ろな表情で目が
泳いでる母親を尻目に、キャラグッズコーナーにたかってるガキども、ポニョポニョ♪歌いながら
帰途につくガキどもが見受けられましたが…やはり、ガキ個人によるみたい。後半のシーンから
ただならぬ気配を感じ取っちゃったらしく、始終俯いてる子も見られました。まぁ、でもそんな子
は歳を経て、大きくなってからもう一回観直してみれば、新しい発見に目を輝かせる事でしょうね。
伊集院が言っていたアレ。『子供の頃に観た映画は、明るく楽しい物は今観ても何とも思わないが
「ワケが判らないが何だかスゴいモノ観た」という印象の映画は、今観直すと「あッ!」て思う』
ッてヤツね。
(アタシはあの回のトーク聞いてて「チリン」か…やっぱその辺に来るのネ、と笑っておりました)
さあ、次は3回目の鑑賞だ。今度はどんな「印象の転換」「新しい発見」が起こるでしょうか。
なんだか、いつまでも噛んでいられる、味の無くならない魔法のお菓子を味わってるみたいだ。
「崖の上のポニョ」、鑑賞2回目御かんそ。(続)
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月23日(水)02時56分16秒
返信・引用
復活。続けます。んで今度はキャラクター以外の、描写の印象。
注意!あくまでアタシの映画鑑賞2回目の「印象」をダラダラ書いてるだけですからね!
アタシですら3回目の鑑賞では、コレと違った解釈になるかも知れませんからね!
印象も何も、ホントに生命の水漏洩→大津波のシーンは凄い。この凄さは子供にも普段アニメなんか
見ない大人にも「うえ〜怖えぇ〜」と伝わるとは思うけど…コレ、アニメやマンガを志した事のある
ヒトなら、いっそうそのスゴさが通じると思う。いや「作画の迫力と緻密さ」を言ってるんじゃなく。
ソレもあるけど、その逆のベクトル「デタラメさ」。普通、アニメでも自然災害の脅威なんかを描く
際には、リアルさを損なわないように腐心する。それがこのシーンでは「高品位」が売り物だった
ジブリの作画の、その描線さえグチャグチャになってっちゃう。監督、初見感想で「手が痛んだんで
しょうね」なんて生半可な事を書いて御免なさい。全て意図的だったんですね。
ポニョがいもうと達の助けで束縛を逃れてから、描線はどんどん荒れだす。殴り描いたような線になり、
ついに生命の水を漏洩させるカットでは、幼児の描いたラクガキそのものになっちゃう。あまりにも
シュール。ココ、注意して観るととんでもないから観れ。この落書きパワーはやがて津波となり、船も
町も飲み込んでしまう。それまではリアルな人間が乗り込んでいた船が、北斎の出来損ないみたいな
落書きの本流に絡みつかれ、飲み込まれるのだ。狂ったような演出。破壊、混沌。無秩序、原初のパワー。
コレが「ポニョの持つパワー」なのだろう。この「どんな秩序も破壊される無茶苦茶ぶり」は、作品世界
そのものをも崩壊させてしまう。観客は「夢」の中にいざなわれて行く。そこは「現実」と「夢」とが
ごっちゃになり、「生」も「死」も同居する。即ち、このシーンより後に本作に現れる「死の感触」は
『本物の「死」だけれど「事実」ではない』みたいな、そんな混沌とした作品空間となる。それが収束
せずに最後まで続いちゃうんだから、なおさらスゲエ(笑)!
リサはすんなりとポニョを迎え入れ、そして「不思議なことが起こっているけれど頑張ろう」みたいな
セリフで励ます。まさに夢の中の感覚。翌日、事態はさらに悪化。原初の生物がうろつきまわり、宗介
は昭和テイストのセリフを連発し(笑)、やがて玩具のポンポン船に乗り込み「観念の世界」へ船出して
行く。そして、その先で出会う「夢」の数々は…このシーンの妖しい美しさ、恐ろしさを実感出来ない
人はコレを宗介とポニョが出会った「アニメの中の出来事」ではなく、自分が実際に見た夢だと思って
頭の中で再構成してみるといいかも知んない。船に乗っているのは自分。すぐそばにはやたら元気な、
人間ではない女の子のお尻があり、出会う真っ白なボートには、逢った事のあるような無いような家族
が座っていて、なぜか赤ん坊だけは不機嫌で泣きわめく…やがて擦れ違う大型船には、見知った町の人
達が全員乗り込んでいて、友達の女の子が呼んでいる。「あたしもそっちに乗せてー」。
…監督、初見感想では重ね重ね、いい加減な事を書いて済みませんでした。少女・クミコちゃんの役目は
この一言だけで、充分に満たして終わっていたんですね。…なんだかナミダ出てきた…。
それまで町を生かし、家族を生かし、一生懸命に生活をしてきた、真面目で優しい人々が、全員の声を
一つにして自分の航海を応援してくる。交わす敬礼。…ダメだ。オレ… また泣いちゃうかも…。
この「あの世感覚」は、まだまだ続く。探していた母親・リサの喪失。そしてトンネルの中ではポニョ
でさえも失いかける。それまでこの夢に誘っていた、大好きな女の子。すごい魔法のパワーを持った
頼もしい、自慢の友だち。握っていた、暖かい手。それが「ここキライ…」の声を前触れに、どんどん
縮小して、玩具のように小さくなってしまう。…なんて悪夢だ。(あくまでオレの「印象」ですからね!)
これらの作品世界崩壊状態は、やがて出会うマンマーレによって収束可能、魔法は解ける、と告げられる。
しかし、観客が受け取った「死の感覚」だけは払拭しようが無いまま物語は唐突に終わっていってしまう。
「誓約」。
「貴方はこの大混乱を招いた女の子を一生、引き受けられますか。心変わりすれば彼女は即、泡、ね」
セリフでは、彼女が人間化すれば魔法は失われるので結果オッケー、みたいな御託を述べているが、
観客はそんな設定なんか知った事じゃない。さっき喰らった「死の感覚」の方が重要、なのだ。
目の前には元気で、愛らしく、自分を一心に慕ってくれる少女がいて見つめている。さあ、どっちを
選びますか。…ココで実際の現実世界で起こっている様々な災厄を「遠い世界の、自分とは関係無い
出来事」としか認識していないヒトには、この誓約は「5歳児に一生変わらぬ愛を誓わせる」以上の
重圧は感じられないかも知れない。しかし「災厄がある事は知っているが、耳を塞いで他人事のまま
通り過ぎようとしている人々」は、唐突に気付く。この娘を引き受けて「魔法」を収束させる事は、
同時に、そんな災厄が待ち受ける外界へ出てゆく事なのだ、と。
で、さらに意外と重要だったのが、エンドロールの背景になってる、素朴なタッチの横長ロング絵。
小学校の教室に貼り出されてるクレヨン画みたいな児童絵っぽい図柄で、なにやら意味深な内容が
描かれている。プログラムにもドドーンと特別扱いで14Pにも渡って大きく載ってるから、手元に
ある人は開いてみて。子供たちが平和に遊ぶ崖の上(内の世界)と、そこに襲い掛かろうとしている
荒れ狂う海(外の世界)。その先に続く自然の美しさ、生命で溢れかえる海中世界。コレ、ある意味
「ナウシカ」のオープニングタイトルロ−ルの背景画に使われていたタペストリー画と同じくらい
判り易く本編内容を解説した物かも知れない、と見受けられるけれど、どうか。
この映画の演出テーマは優しく暖かい「夢」の中で、「内の世界」と「外の世界」を引き合わせる
事にあったのかも知れない。だからポニョの魔法で「現実」を「曖昧」にして「生」と「死」をも
混在させた。攪拌。スクイーズ。その「夢」の中で、何か重要な啓示を受けるような、不思議な幻
に観客は相対する。様々な思いが、観客の胸に湧き生じる。「コレは何なのだろう」と考え始める。
その「考えさせること」こそ、今回の映画で監督が目論んだ、本作の最大の機能なのだろう。
内の世界。養鶏場のような生活、金切り声で電話に怒鳴るモンスターペアレンツ、友達の妬みや嘲笑
の視線、人生を教えてくれるのは経験豊富な老人達の説話ではなく、DSのスクリーン。
外の世界。人々を飲み込もうとする大災害、経済破綻の予兆、人類を支える環境の限界の訪れ。
こんな状態で5歳児に「地球を引き受けて生きてゆきます!」…と誓わせるには、どうしたらいい?
ポニョが来る。ポニョは来た、崖の上に。ほがらかに笑いながら。生命のエネルギーを満帆に携えて。
生きる事に刹那の躊躇もせず、愛する者を追いかけるのに瞬間の戸惑いも見せず、大津波を従えて。
街はメチャクチャ。もォ、笑うしかない(笑)。
さあ皆んな「ポニョ」を観て笑おう、わははのは。あッ地震だ、どずずずーん。監督
「笑えッ!!!」
「崖の上のポニョ」、鑑賞2回目御かんそ。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月22日(火)22時16分29秒
返信・引用
え〜、観て来ました。2回目。楽しい。劇場へ向かうのも、観るのも、その後で反芻するのも。
今回観に行くまでは、昨日までの鑑賞後反芻の結果で得た自分なりの解釈を考えつつ…『「ポニョ」
って遅効性の内服薬かも…ジワジワ効いてくるヒーリング薬。でもシロップたっぷりで飲むと美味
しい。この映画を観て「甘いオヤツかと思ったら薬じゃねえか!薬飲むのキライ!」なんて言ってた
のが飲むと美味しいので飲みたがって風邪ひこうとする馬鹿ガキが今のオレか?』…なんてニヤツキ
ながら劇場に向かいました。向かったんですけど…
また、印象が変わりました
。
コレはスゴイ。この発見すら次回の鑑賞の際には、また新たな発見の前に色褪せてしまうかも知れない。
「何度観ても新発見がある」…とは傑作の条件ですけど…コレは3回目、4回目、いつ観てもその度に
新鮮に楽しめるぞコレは!と保障されたようなモンです。さらにこの映画、観てる間だけでなく、家で
反芻してる時間がまた楽しい!
ええと、作品中に横たわる「死の影」とかの印象は変わりませんが…今回与えられた、新「発見」は
多分この映画キッチリ全部意味が通ってる
ッて事です。アタシ、初回の反芻で『ほのぼの児童向け映画の体裁は崩さずに、そのそこここにハイド
テーマ的にソレ単体でも通じるメッセージ性の高い断片イメージを仕込んだ物』みたいに考えてたんス。
なんせ一度しか観てなかったモンで、まだ。そしたら今回の鑑賞で確認したのは、幼年向け童話じみた
物語を展開しながら、全ての描写とセリフにとても重い「意味」が含まれてる、ちゅーこッてす。
センスの鋭い御方には「ナニを今更」なんでしょーけど…。
ただしこの映画、ミスリードには御用心?ネットを流し読んだ所では↓下でアタシが感じた物以外にも
北欧神話とか、様々な楽しい隠し符丁が仕込んである様子ですが、アタシが思うにはコレらは、ソレに
気付いて、暗号解読したからといって隠されていた巨大な謎が浮かび上がる、なんてな性質のモンじゃ
ないと思います。言っちまうとコレらは例えば「エヴァ」を観た監督が「ふん、庵野はこんなテグチで
客を釣ってんのか」と思って入れてみた…程度の物かも?暗喩としての機能はせいぜい、この映画の
「本当の輪郭」に勘付かせる手がかりになる、くらい?あくまでアタシ個人の感触ですが?自分にゃ
監督が「お前ら、こんなの好きなんだろ?」と遊んでくれてるような気さえします。はい監督、本作を
ほじくり回す宝探しは「エヴァ」と同じ位に楽しいです(^o^)。(コレがミスリードでない事を祈る(笑))
以下↓から今回の鑑賞で、アタシが受け取った印象をダラダラ書いてみます。まずはキャラクターから。
あくまで、今回2度目の鑑賞で得た「印象」です。次回の鑑賞で、また塗り替えられるかも知れません。
リサは「女」の行動原理を象徴化させたキャラ。理屈も何もない、生命力だけでカッ飛ばす。愛する
男との関係が命。愛情と本能に忠実。突然現れた怪物(ポニョ)も、当然の事の様に受け入れる。しかし
そんな「女」も、人間としてあるべき「責任」と「仕事」の前からは逃げない。
その「女」が神格化したのがグランマンマーレ。モハヤ人間には理解不能。人類が滅亡してもニッコリ
微笑んでいそうなヒト。いや、ヒトじゃない。生命の源「海」の神格化した意識、みたいなの。
リサと宗介が互いを名前で呼び合うのは、最初から親子関係を希薄にして「独立した人間」として相対
させるため。そうでないとクライマックスで彼に、唐突にとてつもない重責を背負わせるパートが成り
立たなくなる。
養老院の婆さん達は、そんな「子供との関係」も成し終えた人間。この世の輝きも闇も全て呑み
下してきた存在だから、ラストで宗介の背負う「重責」の場面も、ニコニコ笑って見ていられる。
その中でトキ婆さんだけは、ちょっと別。理性的で、信念が強く、その結果ひねくれた常識家。
クライマックス、そんなトキ婆さんと対峙するフジモトが、互いに宗介に対しこっちへ来い、と誘う。
この場面の寓意は、その直前のトンネルと同じで「生か死かの選択」でイイと思うんだけど…
どんなにフジモトの言う事が理にかなっていて、観客すらも「その方が正しい」と判っている事態
でも、それでも宗介は柵の上を走る。「本能に従った」から。トキ婆さんは迎え入れる。「そうす
るのが当たり前」だから。そんなトキ婆さんの顔に、ポニョがぶつけられる。
監督の意図としては、きっとコレ多分「ポニョでも喰らえ!」って事なんじゃないかと思うけど…
「常識なんてしょせん宗教みたいな物だ。ポニョが本気を出したら敵わない」と言いたいのかなぁ?
ポニョって、何だろう。
ポニョって、「女」であるのと同時に、「人間そのもの」なんじゃないだろうか。
快活で、一途で、いじらしくて、時に女神のような慈愛に満ちていて、貪欲で、時にゾッとするほど
醜くて、何をやらかすか判らなくて、危険過ぎるパワーを秘めていて、でも余りにもいとしくて、
決して無視出来なくて、愛さずにはいられない。
対する宗介も、勿論人間。監督は「女性原理」「男性原理」って言葉を使ってるみたいだけど…
この場合は単純に「パトス」「ロゴス」と置き換えてもイイかも知んない。ただしコレは「ポニョ」
の場合のみ。別の物語では男性側が害をなし、女性側が救う、なんてのも考えられるかも知んない。
コレは、男性側から見た「女性」を描いた映画なのか…? いや、ちょっと違うかも…?
主題歌「海のおかあさん」の歌詞(プログラムに記載)や、終盤のマンマーレのセリフ「ポニョは
魚だったのは判っていますね?」…から考えると…『ポニョは地球の生命そのもの』ではないか。
混沌、純粋、利己的、溌剌、強欲、艶、思い込んだら命がけ、破壊的で無茶苦茶なエネルギー。
監督は多分「千と千尋」の準備期間などに幼女達を観察して、あどけなさやはかなさなんてモン
じゃない、根源的かつ破壊的なエネルギーでも見られたんじゃないでしょうかね?(笑)
ポニョを引き受けるという事は、地球そのものについて責任を負え、なんて迫るのに近い。
フジモトは人間の、ソレも幼児なんかにそんな誓いが出来る訳がない、きっとポニョは泡になる、
と思ってたんじゃないですかね?それでポニョに対して「眠っていてくれ」と願っていた?
しかし『逆に5歳児なら、きっと「うん」という!』…というのが監督の答え、でしょう。
結果、宗介を充分に尊敬に値する存在と認め、厳粛な態度で握手を交わすフジモト。
しかしそんな「男」は、この映画では何も出来ず。フジモトはポニョの周りをオタオタするだけ。
耕一なんざ行方不明。あくまで「母と子」の関係式。その母はラストで、寓意的には「死ぬような」
大変な重責を息子に背負わす。画面もBGMも、雰囲気はとてつもなく明るく和やか。この場面で
例えばグランマンマーレに「宗介、死んじゃうかもじゃん!」と詰め寄ったら「死ぬかもね?」と
ニッコリと微笑み返されるだろう。そして宗介も「ぼく、やるよ!」と振り返るだろう。そんな映画。
そんな母子関係。もう一つ言えば「そんな母親になってくれ」と、観客の母たちに告げるような映画。
人間界がこの先どうなろうと、40億年も地球の生命をはぐくんで来た「海」には、小さな事だから。
ちょっと、お休みタイムを下さい… 「崖の上のポニョ」を聞きながら、涙ぐみます…
※明記しておきますが「コレが正解だ」なんて言ってるのではありませんよ!!!あくまで「印象」。
「ソウルイーター」・16話…のはずなんですが、本来…
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月21日(月)21時20分52秒
返信・引用
★(★○)「ソウルイーター」・16話「激闘!幽霊船〜ボクの頭の中の地獄?〜」
面白かった!!!
対クロナ戦は短く端折られはしましたけど、そりゃもォアンタ!ぢゅーぶん過ぎるほど、「おおッ!!!」と
大声上げちゃうような迫力でしたし、シュタインとメデューサの行き詰る睨み合いは実際の戦闘並み
の緊張感でしたし、そんな中、無邪気なマカのたどたどしいぢぇらしいは拝めるし!
…本来なら、たぁぁっぷりと楽しい御かんそが書けそうなトコなんですが…。済いません、今回だけ、
今回だけは、ちと御かんそ書きを延期させて下さい…。どうにもこうにも現在、頭ン中が「ポニョ」で
いっぱいで…。いくらなんでもこんなに影響受けるとは思わなかった、「ポニョ」に…こんな状態で
いくら「ソウルイーター」とはいえ、ノリノリの御かんそ書けるほどオレ、器用じゃない…。
この状態・"「ポニョ」ショック"は明日、2度目の鑑賞に行って、そんで決着の御かんそ書きを済ませ
たら収まると思いますんで。そしたら「ソウル」16話の御かんそはこの投稿に追加編集で書き込み
ますんで。ホント済んません。 いや〜、いくらなんでも、こんなに影響受けるとは思わなかった…。
「崖の上のポニョ」。ココから本題の、ぶっちゃけた御かんそ、です。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月21日(月)10時27分26秒
返信・引用
編集済
また一晩寝て、「崖の上のポニョ」を再び、反芻してみました。
え〜、「ポニョ」に関する御かんそを、改めます。
下↓に書いた初動感想で、アタシが本作のそこかしこに見受けられる「死の影」に対して避けていたのは、
まぁ一つには『この映画の表看板であるところの「楽しく夢のある児童向け」を正面から楽しみましょうよ。
だってヒットして欲しいしィ。中に何がしかの要素が含まれているにしたって、そんなん後からゆっくり
論じればいいじゃん。だってヒットして欲しいしィ』という気持ちがあったからですが…実は、もう一つ
理由がありまして…
同じく昭和の名監督、岡本喜八の映画が好きだったんですが、このお方の晩年の「大誘拐」を観に行って
『スゲエ!御歳を召してらっしゃるのに、まだまだ切れ味衰えねえ!この御方も手塚先生や藤子F先生の
ように最後の最後まで立派な「作家」であり続ける御人だよ!』と有頂天になっていた自分は、その次の
「EAST MEETS WEST」もスキップ気分で観に行って、作中に流れる違和感に「…?」と思ったんですわ。
そしたら岡本監督、その後のインタビューで「制作最中、自分にも違和感があった」と、脳疾患であった
事を明かし、その直後に死んじゃった。
自分は今回の「ポニョ」を観て、その時
「EAST〜」を観て感じたのとそっくり同じ違和感
を感じたんですわ。
だから、劇中に何度「死の影」が描かれようと『宮崎監督、こんな「つい書いちゃう」くらいに死ぬのが
恐いのかな…まぁ「千と千尋」で、自分のお葬式を主題歌に謳っちゃうような御方だし…』とか、後半の
「夢の中にいざなう」ような演出に対しても『なんか「地獄の黙示録」みてえ…(^血^;)…「ポニョ」と
「地獄の黙示録」…ネタとして面白いけど、そんな悪趣味な御かんそ書けるか!』とか思ってて、初めから
この「死の影」と「違和感」を頭から振り払おうとしていたんですわ。
それは
『宮崎監督、死んじゃヤダ!!』
…という気持ちがあったのかも知れないし…いや、違う…もっと
言えば
『宮崎監督、「衰え」をみせて死んじゃヤダ!!』
…という欲求があったからかも知れません。
しかし、初動感想から日が経つにつれて、その考えも変わりました。この御方「死の影」に振り回されて
んじゃない。全部意図的にやっておられるんだなぁ、と。
事ココに至って、何もかもぶっちゃけて御かんそ書く事に方針転換致しました。この映画、「夢のある
児童向け」ッて表看板を(取り敢えず興行中は)通してゆけるような、生易しいモンじゃない。
これを皆が論じ始めちゃうとこの映画、コレまでのジブリ作品のような大ヒットは望めなく
なっちゃうかもですけど…自分としては、だから『後でいいじゃんそんなの…子供達にとっては間違い
なく「夢のある児童向け」なんだし、出来るだけ多くのガキに観て欲しいし…』とか思ってたんですが、
いいでしょ、コレは宮崎監督御自身が望まれた事なんだし。日テレなどの企業に「夢のある児童向け」
作ってりゃイイんだよ!…とか迫られりゃ、監督のこと、何がしかカクサクなさるのはトーゼンの事で
しょーし(笑)。観客に対しても、オタク諸氏は勿論、この映画に「暖かい癒し」を求めてやってきた
家族連れにさえ「ホッとして、今の幸福を再認識して、満足してお金を払って帰っていただく」という
オシゴトを果たしただけで、御自分の晩年の作品に対して「コレでいいんだ、コレがアニメという物の
職務なんだ」と納得されるはずがないし(苦笑)。モチロン「ポニョ」のテーマは、ダブルミーニングの
もう一方の側、幼い子に見せてやろうとした「生の肯定と勇気と責任」である事は変わらないでしょう
けど…自分がコレを見た際に感じた「監督が岡本監督みたいになる予兆なのではないか」という印象、
コレはあっさり捨てます。「死に振り回された結果としての演出」なんかじゃない、コレ全部意図的だ!
…そう思えた事が嬉しい。あ、コレ以降はムロン、ネタバレなんか一切気にしません。
「ここで死んでいてもおかしくない」描写が積み重なるのは「ココで死んでいたら」という反芻をして
みろ、という提示である事は間違いないですわね。ソレは映画に家族揃って「幸福の再確認」を求めて
やってくる家族連れに対して、さえ。波がかぶる船揚場を越えるところ、突風に吹き飛ばされるところ、
朝起きてみたら高潮が床面ギリギリまで来ていたところ、等々…
「ポニョ」という映画は、このところ日本で度重なった災害を下敷きにしているんですねぇ。さらに
言ってしまうと、そんな災いをこうむった人々を「他人事」として、今現在の幸福の再認識に夢中の
家族連れの両親の世代に、何か含ませたい事があるんですねぇ、きっと。…と、ココまではアタシも
映画初見の際に認識してました。問題はココから。
ポンポン船で出航してゆく「ポニョ」と宗介。「どうぶつ宝島」の出航シーンのように美しい、夢の
ような名場面。まさに極楽浄土、あの世の情景。…ああ、監督は、過去これまでに描いて来た「どう
ぶつ宝島」や「パンダコパンダ」のような、真に子供に見せてあげたい「夢のような映画」をココで
再現するおつもりになったんだな、という事が当初、物凄く嬉しかったんですが自分は、しかしココ
の場面に含まれた、もう一方側の意図は、コレを「子供に戻って」楽しみたい親の世代に対して「生
きていればこそ楽しめる夢である事を考えてみろ」と提示したかったのかも知れませんねえ、きっと。
やっぱ、このシーンの演出技法は「地獄の黙示録」だ。
カーツ大佐の村に行くために、カンボジアのジャングルの河をボートで行く場面ね…。
あッ!!!だからこの映画、ポニョが大津波を率いて突進する場面で流れていたBGMのモチーフが
『ワルキューレの騎行』だったのか!!!
…ちょっと、出来過ぎだ。ホントか?偶然の一致か?コレ。
さらにはこの、ボートで行くシーン、赤ん坊を祝福するシーンは、これまでの大災害で実際に死んで
しまった子供達に対して捧げる「花束」にもなっているのではないか、とか思えてきて…。
不吉だ。なんて不吉な映画だ。
しかし監督は「もう、俺はその世界の鳥羽口まで来ているんだ。ソレが「死」を描いて何が悪い」…
と、あかんべえをしているみたいで。(もう監督の余生が短いだろう事なども遠慮しないで書きます)
不吉であると同時に、美しい。妖しく、美しい。
ああ、コレはすぐに、もう一回観てみなきゃなんなくなった。すぐに観直さなきゃ、正確な御かんそ
も書けない。…今夜は「ソウルイーター」があるので明日朝一番にでも、もう一回観直して来ます。
…もう一つ。この映画を観る前に書いた、アタシの「ヒットするでしょう確実に」…という言葉も、
取り敢えず取り下げます。どのような興行成績になるのか、想像も付かない、コレは(笑)。
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そういや今回の「ポニョ」って作品、宮沢賢治の童話にも近いトコあるかも知んない…
「風の又三郎」とか…
子供の読者は普通に「なんかヘンなヤツが村にやってきた!」ってだけの物語として読めるけど、
大人は、そこかしこに含まれる不思議な「死の予兆」じみた書き方に、不吉なイタタマレ無い感を
味わう、という…
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今、itunesで買った主題歌「崖の上のポニョ」を繰り返し、無限リピートで聞いてる。
♪ぺたぺたぴょんぴょん♪足っていいな駆けっちゃお♪
♪にぎにぎぶんぶん♪お手手はいいな繋いじゃお♪
♪ふくふくいい匂い♪お腹がすいた食べちゃお♪
♪あの子と跳ねると心も踊るよ♪あの子が大好き♪(勿論JASRACなど無認可です)
…オレ今、泣きそうかも…
ひょっとして「ポニョ」、物凄い大傑作!!?
まだ判りません、もう一度観てきます。
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あ〜。何だか自分でも、だいたい解釈の方針が整ってきた気がする。勿論、まだ観には行きますけど。
この映画の鑑賞法、5歳児に戻って「何だかヒドく啓示的な夢を見させられている気持ち」になって
観るのが正解に近いかも、って思えてきた。コワいけど、妖しく美しく、何だかとても懐かしくて、
すごく大事な事を思い出したくても思い出せない、誰もが見た覚えがあるだろう、そんな夢。
本来なら一度で理解出来ない映画ってのは、何度も劇場に足を運んでセリフの一つ一つを吟味して、
やっと正解に辿り着くモンだけど、この映画にはそんな「謎解き」なんて必要ないかも知れない
トコが凄い。シーンの一つ一つが脳裏に食い込んでるし。
「崖の上のポニョ」
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月19日(土)22時36分34秒
返信・引用
編集済
★(☆☆☆☆)
「崖の上のポニョ」
(↓アタシにしては珍しく、そんなにネタバレはありません)
はい、そんで、我慢出来なくて観てきちゃった「ポニョ」。初日の混みようは座れない程でもない、
という情報をつかんだので。品川プリンスシネマ18:00の回は2スクリーン体勢で七分程度の入り
でした。
観る前に『きっと今回は「パンダコパンダ」じゃないかなぁ』と夢想していたら、アタリ。続編の
「雨ふりサーカス」の方。洪水シーンよりも、どっちかってっとEDがまったく同じ造りをしてる
時点で、監督が過去の御自分の作品を慈しんで撫でてやっているような印象を受けました。
んで、内容は…。
ビハインドテーマや、暗喩を仕込んだダブルミーニング的な造りはあるかな?と思ってたんですが、
今回は幼年向け童話映画にキレイに徹しておられるので、そんなロコツなシコミ刀は見受けられず。
いや、勿論テーマはあります。物凄く真摯で、大人な視点のテーマが。でも今回は「子供に観せる
ための"まんが映画"を造ろう…そう「パンコパ」みたいな」というコンセプトを踏み外さないので、
テーマの突出はありません。後で、ジワジワ効いてきます、テーマの方は。
それよりも画面。詩的で、眼を見張るような映像が息を継ぐ暇も無くたたみ込まれます。スペクタ
クル、ほのぼの、この世界の美しさ、妖しさ、自然の脅威、生物たちの躍動感、光、波、空、緑。
さらには、この、普通の人間ならとっくに枯れているだろうはずの御年寄りの頭脳から、何でこん
なに鮮烈なイメージが無尽蔵に湧いて出てくんの!と圧倒されるようなアイデア、イマジネーション
の洪水。これでもか!これでもか!とばかりに魅力的な『夢』の数々が押し寄せます。
ただ、しかし今回は、そんなアイデア段階でのイメージボードを繋いで一本作ったような映画になっ
ています。イメージボードは黄金の山のようにおびただしく積まれているのに、一本の映画として
完結させるためにシナリオをヒネる間がなかった、みたいな。宮崎監督…お辛いでしょうね…他に、
誰も頼れるスタッフがおられないのですから…何もかも全てを、自分独りでやる以外にないのです
から…あの線…波の線…手が痛んだんでしょうなぁ…きっと…監督、本当に本当にお疲れ様でした。
んな訳で今回の映画は、まるで
『
1時間40分のパイロットフィルムみたい
』です。
アタシは、観ながら夢想していました。『コレをパイロットフィルムに4クール1年間のTVアニメ
シリーズを造ったら物凄く魅力的だろうなぁ…』と。ポニョが人間になるまでの不安定な期間を追う、
日曜日のゴールデンタイム辺りに流す週一作品。勿論ポニョは毎回、宗介に抱きつきます。ほがらか
で明るくて、でも毎回大嵐を巻き起こすポニョに幼稚園の友達も養老院の婆さん達もてんてこ舞いの
大騒ぎ。失敗して金魚に戻って助けられたり、魔法で人助けをしたり。この世の不思議があふれ出る
怪事件、ホロリとさせる出来事、笑いあり涙あり、そして老若男女誰もが頬を緩めるような健康的な
萌え(笑)もあり。毎回色んなハム料理も顔を見せて。
もし、もし、そんなアニメ作品が出来たら、それは本当に、本当に、アタシの理想です。
「どれみ♪」に熱狂しながらも、常にその姿の向こうに追い求めていた、真の『本物の児童向け作品』
が現出します。「佐藤順一監督なら出来るかも」とか、無責任に言うだけ言っていた作品。
「アルプスの少女ハイジ」のように、キャラクターの愛らしさで引っ張りながら、SF的なアイデア
や妖しいクリーチャー、巨大な怪異などで現代でも充分に通じる輝きを備え、シリーズラストは一生
の思い出になるような大感動へと持ってゆける1年間。魅惑的な「夢」がいっぱい、子供は勿論、口
には出さないけどその隣で大人も放映を楽しみにしちゃうような、週に一度のおタノシミ。
そんな素晴らしいアニメ作品が現れたら、アタシ泣いちゃいます。おいおい泣きます。毎週、毎週。
ソコまで考えて、はたと思い当たりました。
宮崎監督、
『ホラ、出来るじゃん』
…と言われているんじゃ
ないのか?この映画を通じて。
この、パイロットフィルムにさえ見える、言ってしまえば"未完成"っぽい、けれど魅力もアイデアも
キャラもヒット要素も全体の構成も全てが揃った『お試し版』みたいなフィルムを作ってソレを通じて、
『ホラ、出来る。何でやらないんだよ、お前ら』
…と言われているんじゃないのか!!!?
ソコまで考えた時点でこの映画は、あたしの大事な、大事な『宝物』になりました。
"萌え"って感情は、トコトンまで突き詰めてゆくと、この映画みたいなモンになるんだよ…いやホント…
信じませんね、ソコのアナタ…ぶふふ…
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☆7/20、一晩寝たので、補填。
「アッチの世界」から、観客の子供たちを連れ出しにやってくる、変身魔法少女。
『夢の世界への案内人』。昔、ピーターパン。日本では「魔法使いサリー」辺りが元祖?
それは「ハイジ」のような一見リアルな人間ドラマに振ったようにみえる、けれど根はファンタジーな
作品を経て、そして「どれみ♪」のような「原点に戻ろう」という作品も介して、現代へ。
彼女が観客を連れ出そうとする世界は「生の喜び、輝き」に満ちている物でなくてはならないが故に、
彼女がやってくる世界は「死のイメージ」と直結していなければならない。彼女の存在や、彼女が関与
する魔法は、常に「死の世界」と直結していなければならない。
この辺りの構造は、なんと、大変に初歩的ではあるものの「ぽてまよ」が手を染めようとした(途中で
止めた(笑))モノと一緒。オドロキ。この機会に「ぽてまよ」も再評価の機会を得るか!?(笑)
「ポニョ」という作品のテーマは「責任」。
彼女は、少しでも決心が揺らげば、また諦めれば、泡となって消え失せてしまう存在。
「てめえら、逃げ出すんじゃねえぞ!」…という監督の一喝が聞こえてくるかのようだ。
そう考えると、今回の作品が「完成型」でなかった理由も、頷ける。
まるで、「宝の地図」だけ、ホレ、とつっけんどんに手渡されたかのような。「宝のありかまでは連れて
行ってくれないの?」といぶかしむ他の観客を尻目に、「宝を探している者達」にとっては、まるで
設計図と共に、粗く切り出し線を入れただけのバルサ材の塊を手渡された、かのような。
★え〜と、ココで少し注釈を付けときます。アタシがこの映画を「未完成だった」みたいに言っている
のは「映画として出来がハンパだった」からではありません。映画としては機能を充分に果たして
終わっています。これまでのジブリ作品みたいな急激な「雪崩ヒット」は望めないかも知れない、
盛り上がるにしたってソレは緩やかなモノになるでしょうけど…むしろアタシの言いたいのは本作が
「設計図っぽい」ところ。
フジモトみたいな傑作キャラを作って「このキャラはこう使え!説明に良し、息抜きに良し!」と
実際の用法まで示しておいて、そのままなところ。幼稚園の、ちとワガママなガールフレンドを出して
おいて「ま、このキャラの使い方は説明の必要もないよな?ちょっとでも作劇を志した事のある者なら、
語るまでももあるまい」…と、そのままなところ。等々。
今週分の、アニメ作品さんの御かんそ。
投稿者:
ゆ〜さく
投稿日:2008年 7月18日(金)23時23分6秒
返信・引用
○(●)「うちの3姉妹」・かいすいよく篇
演出もノリ良く、実にユカイでした。例えロリ者でも、この絵では変に鼻息荒げるこたねーでしょー
けど(笑)、それでもトイレのドアノブ欠損で閉じ込められる、なんてな誰もが共感を覚えるようなネタ
で恐怖の体験を正面から活写され(笑)、涙うるうる溜めた姿なんか描かれたヒにゃ萌えまくり必須
でしょーがアンタ(笑)。このエピは、中古屋等で値引きされたのを見つけたりしたらDVD買っちゃう。
○「ひだまりスケッチx365」・3話
頭ン中が春爛漫×365としか思えないスッポコ教師・吉野屋の過去がセリフのみで語られました。ああ、
チラッとだけ触れられた、彼女とそっくりだったという
親友との学生時代の日々、スゴく観てえぇぇ!!!
…でも、その描写はある意味、シリーズ終盤まで取っておくべき"必殺技"ですよなぁ。この頭ン中に
タンポポ畑が広がってるとしか思えないアホ教師の送っていた青春時代が、主人公とそっくりなシア
ワセひだまりタイムだった…ッてオチは、シリーズ全体のシメにさえ使えますよなぁ。
今回も何も事件は起こらないけど、初めて自分の絵を褒められて欲せられた、絵描きの卵の高鳴る
扁平な胸の内を描いただけで許せる。ちゅ〜か、差し入れられた菓子の山に喜色満面の宮子の笑み
だけで許せる(笑)。しかしソレだけではなく、吉野屋は「ちゃんとした大人」になるために苦労してる。
大家は、激安(なんであろう)ひだまり荘の家賃収入だけでは暮らしていけないだろう分の補填バイトに、
苦労してる。主人公達のひだまりタイムは「保護されて」いるのだ、という全体の構造。イイですね。
今回も「罪のない良作」です。本作って、「ARIA」に凄く近いですね。
★●「となりのトトロ」・金曜ロードショー
中コマ前に、サブリミナル的に挿入される「ポニョ」CMには閉口したけど、それは風情を解さない
日テレのやる事。ジブリの制作側と、それを受け取る観客側には「イイ関係」が築かれてると思い
ます。それよりも「トトロ」の内容。幼い頃にコレを観て、ただ単に真摯な児童向けのファンタジーと
だけ受け取った層にも、近年の宅地造成が爛熟&終息期を迎えた環境に住んでいて、何か気が
付く点があるのではないでしょうか、今の時代に至って。こんな風に「時代を超えて機能し続ける」
設計がされているのが、宮崎作品だと思います。
…さあ、「ポニョ」だ
。
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